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少女革命の時代

これはライターのアオヤギさんの話かなんかだと思う(違ったらすまない)けれど、昔付き合っていた恋人と少女革命ウテナを見ていたら「これはメタファー(隠喩)だね」と言われて斧で殴られたような衝撃を受けた、そうだ。

メタファーです。ウテナの。

 ぼくは少し前に、昨日の残りの担々麺を電子レンジでチンした不健康な食事を取りながら「アイカツスターズ!」を見ていた。

これはメタファーだな、と思った。男子にとって女の子が夢見るアイドルは、メタファーの語りに見えた。騎士団長殺し。騎士団長殺し。男子の世界は単純だが、女子の世界は意味が複雑に折り重なっていて、その意味に押しつぶされたまま大人になる子もいるのだろうと思いをはせていた。

そういう人にはいままで5人であった。5人とも幸せな結婚をしてしまった。幸せな結婚ができたのは、彼女たちが意味を捨てず、価値を捨てず、何も捨てなかったからだ、と思う。

恋愛が婚活になり、婚活が生活になった子たちもいた。そういう人の多くはイオンで唐揚げを揚げながら、子供の世話をしていた。

どちらも幸福な人生だった。

今日『室町時代の少女革命』という本を読んだ。これは黒川真頼が紹介し、その他大勢の研究者がいろいろ探している『新蔵人絵巻』(あるいは主長寿)の解説書で注釈書だ。

帯には「男となることを望んだ・・・・・・!」と意味ありげに書いているが、いうほど面白い作品ではない。男装して宮中に昇り云々。女性が男装をするのはわりとよくあったし(阿国歌舞伎のお国もたぶん男装して十字架をかけて舞台にたっていた)、男性が女装をすることもなくはない。鎌倉~室町時代にかけては多数のたあいもないクソ小説が山のように書かれていて、そのクソさがいま読むと非常にほほえましく,勉強になることもあり、その上しかも古注釈や学問知とも関わりがあって奥深い。中世文学の世界はそうした複数的な奥深さに満ちていて、しかもよく知られていなくてたのしい。

楽しいが、この本は異様な本である。まず注釈が細かくて余計で難しい。現代語訳はがんばっているが、吹き出し様の台詞が読みにくい。

というかそもそもこの絵巻は非常に読みづらく作ってある。小さな本で、登場人物も限定的だがほとんど似たような世界の人々だ。オチも面白くはない。出家しておわりだ。

でも、編者たちはそう考えていなかった。

「はじめに」でこんなにすごいことを語っている。「はじめに」(なぜか日本古典文学の研究者たちは呪いのように冒頭に「はじめに」という謎の章談をおきたがる)で変じゃの江口啓子氏はこのようにかいていある。

この本を手に取ったみなさんは、今までに「これはおもしろい!」と思える古典作品に出会ったことがありますか? 
もしかすると、この『新蔵人』絵巻が最初の「おもしろい」作品になるかもしれません。(中略)
この少女の存在は恋のトラブルを巻き起こし、さらにそれが姉妹の確執にもつながっていきます。おそらく本作品は、学校教育の中で培われたみなさんの古文に対するイメージを覆すものになるでしょう。

すごい、と思った。

この絶対的な作品に対する信頼感。盲目といっても、あるいは狂信といってもいいほどの「面白さ」に対する絶対の信頼。

恋のトラブルを巻き起して、姉妹と確執をする少女がでてくるから古典教育のなかで培われた古典文学より面白いのだという論理の強引さ。むちゃくちゃさ。

おそらくこれは江口氏もまったく、1ナノも信じていないことだろう。それが読みたいならマンガ、あるいは昼ドラを見ればいいのだから、わざわざ『新蔵人絵巻』を読む必要はまったく一切ない。しかしそうまでしてこの作品は「おもしろく」なくてはならなかった。

うらやましい、と思った。

この狂信が羨ましかった。僕はそんなに面白い、と思える作品がなくなってしまったからだった。

『新蔵人物語』を読んでも、「これはメタファーだね」とは思えなかった。メタファーではない。これはお話である。

お話であり、意味深なものは何もない。ヤンキーの殴り合いと変わりはない。だけれども、編者たちは自信をもってこういうのだろう。「これはメタファーです」。斧に殴られるのは僕の番だ。メタファーが発生する愛と真実を失ったものにたたきつける愛と真実(あとバイクで突っ込んできて変形して爆発する)。それに打ちのめされそうだった。

若い研究者たちの注釈も、現代語訳の思い切りの悪さも、いろいろな点で不満は尽きないのだが、そうした不満を全て抹殺してこの『新蔵人絵巻』はひたすら面白くなくてはならなかった。本当は何が面白いと思っていたのかは「解説」にある三人の論考ともエッセイとも言いにくい解説に凝縮されている。

この解説は新蔵人物語が現代においてどれほど重要なジェンダー的な意味を持つかについて蕩蕩と語るものだ。異性装、出家。あかるい元気な子。結婚しないで姉妹でいきること。

男性の圧倒的な「圧」

まるで平安時代にタイムスリップした現代人が、十年間暮らした平安時代を抜け出して室町時代にタイムスリップしたかのような印象があった。

何かとあれば平安時代の、すべてが整った律令制の美しい時代を引き合いに出して注釈を書いていた。野蛮で未熟な中世語なんてないかのようだった。無理をして書いている擬古文的な文章も無視していた。このタイムスリップの快楽のなかでたゆたい苦しみそのマゾヒズムがすばらしかった。

すばらしかったよ。

こんなふうに「おもしろいよ」と言ってみたかった。本当はぼくも自分のみたもの、聞いたこと、感じたもの、人の営み、自然の美学、なんとない石ころ、つり上げた魚、本屋で買った雑貨。すべてを「おもしろい」といって紹介してみたかった。

そのチャンスも、その機会にも、その精神にも認められないまま時間だけがたってしまった。

よく考える。

いつかだれかに「これがあなたの人生で最初に出会う面白い作品です」っていうことがあるだろうか。

だれかに、いうことがあるだろうか。誰か、「うそつき、くそつまんねーよ!」って言うんじゃないだろうか。それともみんな優しくて「この作品のおかげで人生変りました」っていうんだろうか。

なおウテナで締め。


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