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隣の芝は、いつも血の色―三十路処女に切歯扼腕―

画像は十和田湖の乙女の像。

手短に書くとこういうことだ。

Aはナンパ師に不愉快な思いをさせられたせいで怒髪天を衝くばかりに怒り狂っていた。その怒りの矛先はいろいろな場所に向けられ、周囲はその雷撃を見て早くAの怒りが収まることを祈った。ところがAを慰めようとしたBはAの逆鱗に触れた為逆にB自ら逆鱗となることになった。そしてAは泣いた。大号泣だった。そしてひとしきり泣き止んだAはBに向かってこういった。

処女だよ。いままで誰にも抱かれなかったけど、それは私の問題だから。

という話の流れを汲んで細部は諸氏で想像してほしい。

僕は心情的には(君らが想像すべき細部の問題で)Bの味方でありたいと思っているけれど、どれほどAが傷ついたのかを想像するのに吝かではない。ただ、人はコウモリにはなれない(これは「コウモリになるとはどういうことか」という哲学的命題のパロディです)。男性は女性になれないのだ。

僕はひたすら困惑していた。Aが自分が処女であることに深く傷ついていたことに驚いていて、しかもまさか処女であることを指摘されて深く傷つくこともそれまで思ってもいなかったからだ。さらにいえばAは処女だとは思っていなかった。このあたりは僕の目がいかにフシアナさんであるか、その鈍感さによる分析力のなさによるである。

ところで、三十路処女問題というのがあるらしい。

男子は三十歳になるまで童貞を守ると魔法使いになれるという噂がある。

この逆バージョンなわけだが、女性のほうは死ぬほど面倒な問題もある。ある時期まで女性をモノとして扱う人々にご飯を食べさせてもらっていた身(恥ずべき過去かもしれないけれど)としては、そういう人を救ってあげたいと思うメンタリティを男子が抱きがちであるように思っている。つまるところそういう人にとってみれば「三十で処女」は可哀想な人であり、自分が救ってあげるべき存在なのである(ただし容姿や精神性などの都合を大いに勘案する)。

そういう人間は普通「クズ」と呼ばれるだろうが、クズも切り取り方によるとおいしく食べられそうに見えるのである。これは野菜の話である。好きな人とするのがイチバンだよと言ってあげたとしても、それも別段救いややさしさにはならない。

この点は圧倒的に女性にとって不利である。処女である、と告白することも、処女である、とバラされるのも、どちらも結局なんの救いにもならない。処女だから抱いて「やる」という男に絡まれることも、処女なんて気にしないよ、と男に言われることも。これをもっとも問題なくクリアするためには、自分の好きな相手とこっそりと付き合い体の関係をこっそりと結ぶことだ。と思うが違うのかもしれない。しかし

つまり、三十路処女にかける言葉を男子はもたない。

Aがマジギレと号泣の間にあったのはつまりこのダブル・バインドだったのだろうと推察する。処女である。気にしている。けれどもそれについて何か言われることも、されることも、言われないことも号泣して怒鳴り散らしたくなるぐらい嫌なことだったに違いない。

彼女だって人を愛したことがあるのかもしれない。片思いで終わったとしても自分の隣を歩いて欲しいとおもった異性がいたのかもしれない。かもしれないだらけなのは全てかもしれないからだが(つまり僕が何も知らないから)だけれど、そのせいでAと気まずくなってしまうのは避けたい。

避けるためにはこうするしかない。岩のように黙って、彼女の内面が凪いで行くことだ。

ちょっと休憩

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