見出し画像

うまく言えない。

カップラーメンの作り方を説明するのは案外難しい・・・・・・という文句から始まる文章講座は、ある種の人達を「きょとん」とさせるだろう。そりゃ、カップラーメンを見たことも無い蛮族に説明するのは難しいだろう。

でも、実際に一度作ってしまえば(あるいは無理に「説明」という形を取らなければ)カップラーメンを作ることに難しさを感じることはない。蓋とってお湯を注げばよいだけなのだから。

最近、ある人に「言葉がうまい人」といわれて、似たような「きょとん」を経験した。単純に褒めてくれたらしくて、それは嬉しかった。単純に羨ましがられたみたいで、それもこそばゆい・・・・・・けど、気持ちよい感覚だ。

ここ2週間ほどデスマーチを絶賛行進中だった最中に、ある芸術作品について書く機会があった。それは作者の経歴や内面や問題意識から作品の製作意図を読み解くといったシンプルかつわかりやすい手法を使って書いた。

この手法が使えない場合も多い。でも、「絵解き」のような手法で絵を解説してみるのは楽しいし役に立つ。作品が気に入らなくても作者のことが少しわかるし、作者の事が分かれば同じ人間なのだから何に関心があるのかわかる

大根の絵は大根のように食えたりはしないが、大根を「大根」として認識させるに十分な気迫があるだろう。先日日本にきて大いに話題になった台湾の国宝である、玉で作られた白菜もそうだ。白菜のように食えるわけではないが、白菜を白菜以上の白菜として認めるのには役にたつ。玉(原材料)で作られた白菜は、玉以上に白菜なのだ。

 こういうことを考えて、「言葉がうまい」という表現に「きょとん」としてしまうのは多分「ことば」を磨こうとして言葉がうまくなったわけではないからだ、と思う。学校の先生(主に国語)の期待と違って、主張を論理的に形成して自分の意見を明確につたえるといった実務的な仕事は、言語では難しい。そんな能力が欲しいならPowerPointで嘘くさいグラフと図示をして大言壮語を爽やかに話す練習をするべきだし、曖昧模糊とした文章と分量であら探しをする人をたぶらかす戦術を磨くべきだ。大言壮語は褒められないが、ベンチャーキャピタル好き老人からだまくらかす役に役立つだろう。

僕らが芸術作品を言葉でいおうとするのは、たぶん芸術が「ことば」の網からするりと抜けてしまうからだ。だから言葉を可変させ、適切な編み目を構築し、最適の角度で放りなげる。その結果が批評なのか感想なのかはどうでもよい。たいていのものは適当な言葉で示せばよい(例:ポムポムプリンちゃんかわいい)のに、芸術はそうではない。そうであるように言おうとしても、捉えきれない(例:ゴッホのひまわりってひまわりを描いてるよね)。

たぶん、実際に実作(音楽とか絵画とか彫刻とか)をする人にはあまりよく伝わっていないだろうこの「言葉の編み目で芸術を捉える」という快楽は、批評っぽい仕草をしてしたり顔したいとか、適当に褒めることでうまい飯食いたいとかそういった欲望をどこかで越えた挑戦である。デート中ならば「きれいな絵だったね」「夢みたーい」のような一言を発してもらえれば美術館はお役目を果たしたことになるだろうが、ギャラリーの一室で作った人が目の前にいるときに「うまくいう」ことができるか、できないか、というのは異様な緊張が強いられる。どうじに、言葉を発した直後に、それは眼前のそれを言い仰せていない錯覚を引き起こす。

面白い。では言ってみよう。ここからの戦いは長い。この間、「ひたすら超大な縄が延々と上下運動を繰り返すだけの無駄にみえるが実は美術館の床を掃除するための機械の失敗作を永久機関にみたてたインスタレーション」というのをみた。ぱっと見には粗大ゴミの木材が気色悪い上下運動を繰り返すだけの粗大ゴミだが、失敗を認めない社会の心狭さや目標到達を最高とみなす工学的な主張への反発がこの作品には籠められている。その批判が適切なものになるためには縄の上下運動が少なくとも10往復分ぐらいはみて面白くないといけないし、体裁的には床の掃除機能もつけられていないといけない。そこで「床、掃除?」という疑問を湧かせつつも「ゆかそうじ!」という得心も必要だ。粗大ゴミが粗大ゴミ以上の価値を生み出すには、見学シャンいゴミという概念から疑問を生み出させる必要がある。それも意味不明なキャプションを通じてだ。そりゃ荷がおもかろう。

で、僕はこういうことを考えているうちに、実作をするよりもうまいこと言い仰せるほうが面白くなった、というだけなのだった。でもこれがうまくいいおおせたことがあるか、というと心もとない。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。