「何もない日」に色を塗れない。

今日は何もしなかった。ずっと体調が悪く、食べても食べても体重が減っていく。何もしなかったのか、できなかったのか自分でもわからない。

でも何かはしていたはずだ。近所のガストにいってワインを飲んだり(デキャンタ飲みきれなかった)、散歩にでかけたりした。本も読んだ。書きかけの文章も書こうと努力をした。

でもこうした日常が「何もない」と感じるのは、きっと「何かある」日に比べてしまうからだ。なにかある。たとえば仕事、例えばお金。例えばイベント。たとえば恋人とのデート。いまはもうすべて失ってしまったものだ。

『不思議の国のアリス』に、マッド・ティー・パーティというシーンがある。キチガイの帽子屋とかうさぎとかがお茶会しているというあの有名なシーンだけれど、あそこに「なんでもない日バンザイ!」という乾杯の音頭があった。〔と記憶する)。すごいいい言葉だと思うけれど、同時に「なんでもない日」を祝うためには狂っていなければいけないのかもしれないと思ってつらい気持ちになった。

――なにかあると、なにもないの間を埋められることば。それが「バンザイ」なのだ。あるいは「いい日だ」でも構わない。

たぶん、多くの人はなにもない日を「何か」で埋めることができない。その能力がない。その気力がない。なにもない日を発見や冒険で埋めることができる人は特別だ。

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ずっとむかし『フルーツバスケット』という漫画が流行ったことがあって、アニメ化もされた。もう亡くなってしまったけれど、岡崎律子さんという歌手の方が『for フルーツバスケット』というEDソングを歌っていた。岡崎さんがどれほど優れた作曲家であり、歌手であり、アレンジャーであって、またプロデューサーであったかはいまここで書かないけれど、その『Forフルーツバスケット』に

たとえ苦しい今日だとしても/いつかあたたかな想いでになる/心ごとすべてなげだせたなら

という歌詞がある。さりげない歌詞だけれど「苦しい今日」というのはたぶん、激務や過労や負傷があるような日ではなく、なにもない日、絶望だけが転がる日の事をさしているんじゃないかと思うことがあった。

この曲の二番に

やさしくしたいよ/もう悔やまぬように/嘆きの海も越えていこう

というフレーズがあって、この「嘆きの海」という詞はそれだけで聖書まで遡ることができるぐらいの語誌がある。この「嘆きの海」もまた、何もない人たちの何もない場所の事をさすのだろう。『For フルーツバスケット』は最後に「ここに生きてる意味がわかるよ/生まれ落ちた意味をしる/Let's stay together いつも」をリフレインして終わる。

よい歌詞かどうかは分からないけれど、岡崎律子さんが込めたかったメッセージ、というか、救おうとしていた日常はこういう無の間にあるものだったんじゃないか。そうした日常が無の間にないような、そういう人生があなたに訪れますように。


と思ったらずっと前もこの曲について書いていた。三つ子の魂ってことで、許してほしい。




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