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ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ

明治の高等遊民には二つの仕事があった。一つは家の名を貶めないこと、二つ目は女と遊ぶことだ。明治時代には遊べる女がいた。その女は表に出さないように書いた。夏目漱石はそういうことをする作家だった。

最近高橋源一郎の小説を読んでいる。

なんで、と言われると困るけれど、なんか読まなければならない気がしたからだ。ある会社の社長が「フィクションを読むやつはうちでは採用しない。そんなものは無駄だ」というインタビューを堂々と載せており、きっとこの方はそういう方なのだろうと思ったからだ。

そして、フィクションのほうがリアルだ、と思うためには高橋源一郎を読むのがてっとりばやいということもある。

高橋源一郎のここ十年ぐらいの小説には、アダルトビデオの撮影を舞台にした短編が必ずといっていいほど出てくる。今読んでいる『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』という小説にも、「注文の多い料理店」というブサイクな女と美女のカップルをAVに誘うしょうもない話がでてくる。

前回も書いたけど、高橋源一郎はうさまーびんびんらでぃんと樋口一葉がえっちする作品も書いている。

くだらないが、わかる。

わかる、というのは、AVに誘った経験があるとかそういうことではなくて、「セックスにいたる道のりをできるだけ軽くしたいという感じ」が持つ「どうしようもない重さ」と「いかんともしようがないどうしようもなさ」にしっくりくるということだ。

そういう経験は実人生ではたぶん経験しない。

経験しないからこそ、言葉にしそびれてしまった事柄をなんとかしたいと思うのだ。

でも僕は高橋源一郎という人をどこかですごく軽蔑している。高橋源一郎は立派な作家で教育者で読書家であり左翼である。左翼であるから軽蔑しているのではない。左翼として自分の立ち場をしっかりともっていることは敬意を払うに値する。綿矢りさや小学生作家ズが自身の政治的立場を明らかにすることはないだろう

しかし高橋源一郎の生き様はめちゃくちゃであり、そのめちゃくちゃさはもっと国や企業や個人の庇護と社会の保全をのぞんでもいいのではないかという気持ちもする。その意味で高橋源一郎の政府や腐敗にたいする憎悪は平仄があわないような気持ちがしている。

でも、高橋源一郎が政治家として立候補したら一票いれてもいいと思っている。

高橋源一郎の文章のなかで、自分が女衒をしていた過去を告白する記事がある。


死者と生きる未来(高橋源一郎)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ http://politas.jp/features/8/article/452

すばらしい名文。僕は高橋源一郎が死んで全集が編まれることがあったら、これを第一巻に持ってきて欲しいと思う。

この文章は、正直吐き気を催すほど「ゲス」い。女衒をしていた過去をもって女子高生の人生をめちゃくちゃにしたことを告白しながら、大学教授になってのうのうと文学を教えている。もっとひどいやつもいっぱいいるけれど、その「のうのうさ」が腹だたしい、と思う。

高橋源一郎の小説はこうした「のうのう」とするために、そののうのうさを受入れるために書かれ続けている。

終わることなく。

軽やかに。

全然関係ない話をする。

むかし、はるしにゃんという男がいた。僕は直接あったことはない。批評家を目指す若者で、書いた物はよんだ。たぶん全部読んでいたと思う。しかしその書いた文章よりも素行や行状の悪さで有名だった。精神分析を得意(?)とし、女を泣かせて、ドラッグをやっていた(とかなんとか)。あちこちからいろいろ断られて就職もうまくできなかった、とも拝聞する。たまに文学フリマでみるとゴスロリ服を着ていた。

彼は自殺してしまった。

フランスに留学するぼんやりした計画を立てていたそうだが、自殺した。

自殺したと聞いて、ふと彼こそ女衒をやりのうのうと批評や小説を書いてのうのうと生きて行くべきだったのではないか、という思いを強くした。

ある人が、そのはるしにゃん氏から届いたという「依頼メール」を見せてくれた。依頼文とは思えないほど傲岸不遜で大胆不敵で腹立たしい上から目線。超超一流のファッション雑誌であればGOがでるかもしれないが、ささいな同人誌ではそれはない。ないけれど、そういう文章でなければ他人と繋がれなかったんだと考えるべきだったと思う。

はるしにゃんの批評はすべてが遅かった。79年ぐらいだったら、もしかしたらもっとちゃんと相手をしてくれる優れた学術・批評雑誌の編集者がいたかもしれない。

ゼロ年代にはいなかった。にもかかわらず、ゼロ年代でないと機能しない批評を書いていた。批評よりもかるいものも書いていた。しかしその軽さは適切な軽さではなかった。現実のほうがずっと軽くて楽しかった。現実よりも軽くなりたかった文章はうわついていてひきつっていた。引きつった笑いは、怒りよりも怖く感じる。近寄りがたく思う。そういうことは誰だって知ってるはずだ。

・・・・・・抽象的な話はやめる。ようするにこうだ。フィクションという手段を使ってのうのうと生きようとする高橋源一郎(1999-2015)に対して、現実そのものの変革を目指したはるしにゃんはただたんに自殺した。自殺するなら女衒になって女子高生の人生をめちゃくちゃにするほうがはるしにゃんらしいのではないか、と高橋源一郎経由ではるしにゃんをみるとそう思う、ということだ。

だからなんだ、と言われると難しい。

なんだ。

なんだ?

複雑なことだ。フィクションの物語があり、物語を形成するコンセプトがあり、そのコンセプトを最適化する作家がいて、その作家を経由して他人をみると、他人を直接みるよりももっとコンプチャルなその人が見えてくる。

そういうことがある。

そういうことがたくさんできるようにたくさんのフィクションを読むと、自分自身という一番面倒なやつもコンセプチュアルに見ることができる。

ほとんどの人はそれができない。必要が無いとも思っている。

でも本当は必要だ。必要な人のために『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』はある。

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