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脱毛は祈り、そして願い。

ちゃんとしたライター仕事の依頼がないので(まあそりゃ僕に依頼する人なんてよっぽどの事が無いとない)、あいかわらず闇の仕事をしている。「深淵をのぞき込む者は、また深淵によって覗かれている」。ニーチェはいいことをいった。

いろいろやっているなかで、女子にとっては「脱毛」という言葉が、自分の数多いコンプレックスを償却するための魔法として捉えられていることを知った。知った、というか、たぶんそうなのだろうなと思った。魔法にむらがるハイエナをひとは「メディア」というのだから。

女性にとって「脱毛」をすることは、何か自分が抱えている不安や恐怖から抜け出すための儀式のようなものだった。肩や背中、腕、ワキ、それからVライン。見えるところも見えないところも含めて、自分の体毛があることは何かの恥のようなことであり、恥をそぐことができたら幸せになれるかのようだった。

脱毛サロンというのがある。脱毛を専門にする医院ともなんとも言いがたい場所で、レーザーやいろいろな技術を使ってちょっとずつ脱毛をさせてくれるらしかった。脱毛には大金がかかるが、お金を払った分だけど幸福が訪れるならばたいしたことではないのだろう。全身を脱毛すると100万円ほどかかるようだ。

あまりよく理解できないが、こうした、自分の先天的な身体的な特徴を打滅すること、それによって平均値よりも高い「美女」認定を受けることは日本社会で生きるにあたって高い利益をもたらす可能性はあるかもしれない。ことあるごとに「美しすぎる○○」と言いたがる日本のサルにとっては、他の類人猿が何ができるか、よりもどう見えるか、のほうがパッと見重要なのだ、ということなのだから。

でも僕は実際の損得勘定よりも「脱毛をすること」で救われる何かがあるなら、その「何か」がなんなのかに興味がある。脱毛したらわかるよって言われても分からないだろうし、脱毛してもわからないだろう。脱毛にかける「何か」を大切に持っている女子にいいたい。脱毛しようと、脱毛しまいと、脱毛をしたら救われると思うその気持ちを、これからも大切にしていけよって。

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