「○○屋さんにならない」こと。(α版)

むかしむかし、友達の彼女で、僕は結局リアルでは一度もあったことがなかった女の子のブログにこんな事が書いてあった。

バイト先であった子と仲良くなった。その子は二十歳を少し超えた年齢で、高校を出てからずっとアルバイトをしていた。ちょうど同い年ぐらいで、二人とも将来に不安を抱えていた。将来どうなりたいの? と、その子にきいた。その子は「お花屋さん」と答えた。「花が好きなの?」と聞いた。「そこそこ」と答えた。「でも何かにならなきゃいけないなら、お花屋さんかな」と続けた。どうしてお花屋さんなのかな、と疑問に思った。そして、最後にこう云われた。「お花屋さん、ぐらいしか思いつかなかった」。た。「彼女の人生の中で、○○屋さんじゃない生き方はなかったのかもしれない、と思うと、その痛みと悲しさで身がちぎれるほどつらくなった。かわいいお嫁さんでも、宇宙飛行士でも、病院の看護婦でも○○屋さんじゃない職業があるんだよって教えてあげたかったけど、それを想像することも彼女には難しいのかもしれないと思うと言葉がでなくなってしまうのだ。」

そのブログの末尾にはこういうことが書いてあった。「彼女の人生の中で、○○屋さんじゃない生き方はなかったのかもしれない、と思うと、その痛みと悲しさで身がちぎれるほどつらくなった。かわいいお嫁さんでも、宇宙飛行士でも、病院の看護婦でも○○屋さんじゃない職業があるんだよって教えてあげたかったけど、それを想像することも彼女には難しいのかもしれないと思うと言葉がでなくなってしまうのだ。」

社会は複雑だ。複雑で、私たち一人一人が見えている現実はその全体の一端でしかない。メディア越しのニュースも、労働組合の年報も。私たちがしらない職業は世界に無数にあって、その複雑なからみあいの中でしか生きていけない。でも、そうした複雑さを理解することは案外難しいのかもしれなかった。

僕も○○屋さんしかしらない人たちをたくさん見てきた。

僕が通っていた夜間の学校には「なんでもいいから働きたい」という思いを抱く子供がたくさんして、その多くの子がもつ「なんでも」には性産業に対する憧憬が見え隠れしてきた。この体を売れれば高い収入が得られる、幸せ。あるいは暴力や横暴がない世界への切符が手に入る可能性があることへの羨望。

 大学に入ってから僕はそうした憧れが軽蔑の対象になることを知った。そうした軽蔑ははっきりとは示されないけれど、貧困に耐え抜きながら知の宮殿で学ぶ自身への誇りであったり、あるいは体を売り物にする女性や男性に対する根強い偏見がこびりついていた。別の角度には、性風俗産業で実際に働いてる人たちもいて、「自分たちが大人であること」に特別な誇りをもっている人たちもいたけれど、それは何か僕がみてきたものとは少し違うタイプのプライドだった気はする。ピエール・ブルデューはいくつかの著作で、ハイカルチャーとは貧民達の文化と区別されるものではなく、貧しきサブカルチャーをも支配下において領有するものだと云う話をしていた。粗雑なこといって申し訳ない。

○○屋さんしかしらないことは無知ではなく、虚無だと思う。彼女にとってはお花屋さんは彼女の世界のなかにある最高のハイカルチャーなのだろう。花を売ることは尊い仕事の一つだと思う。けれども、それはいくつかある選択肢のなかから自主的に選んだものではないのだったら、なんだかそれは寂しいなって。



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