海に纏わるエピソード_表-01-01-768x1086

KとKの話、あるいは演劇をひさしぶりに見に行った男の説話

激情コミュニティという劇団の舞台を見に行った。2014年には30本ちかく見ていたのが、16年には2本、17年は初めての観劇だった。

演劇に興味を無くしてしまった理由は二つある。一つはお金。一つはもう僕が自信が人間を信じられなくなったから。

激情コミュニティのその作品は、明日までやっていた。僕はそれをみていろいろなことを思ったけれど、一番はもう自分が舞台を見て、舞台にたつ人達やその動作に感動することはないんだろうな、という脱力感の前に感想や批評は全部消えてしまった。消えてしまったけれど、消えてしまったなりに、少し書き記しておこうと思う。舞台のことではなく、ゲキコミのことをだ。

激情コミュニティ(以下ゲキコミ)はカネマス(以下K)とカキモト(以下K)の二人が主にやっているユニット、というイメージが僕にはあった。ゲキコミが初めて外の比較的大きな舞台に出たときも劇評を書いたし、そのあとも妙な責任感があって何度も足を運んだ。

ゲキコミの作品は通常、1.ストリートプレイ→2.ファンタジックな独白、3.パントマイム、4.なんかのうんちくで構築される。いずれも、パーツごとに見ればいつもそれなりにわるくはない。でもそれらが有機的な構成や構造を持っておらず、全部がくっつくと俳優たちがパントマイムをしてうんちくを垂れる合間に行われる田舎の話を延々聞く、という構想になる。

以前は、というか、多くはたぶんKが脚本を書いて、Kが演出をしていた。僕はKの脚本が嫌いではなかった。Kは台本より小説やエッセイのほうがうまいとおもうが、Kなりに俳優たちや演出への配慮をこらした脚本は、みながいうよりも愛にあふれているし、Kは自分を殺して少しでも作品を魅力的にしようと奮戦したいた。KがしかしKとの関係や、Kの演出作法と自分の作劇法との間で悩んでいた。Kの苦悩は、作品をみれば一目瞭然だった。KはKを殺そうとしているんじゃないか、Kへの憎しみがKの演出になるのではないか、という疑念すらわかせるものがある。

KもKもハリネズミだ。ハリネズミ同士の距離を測るうちに、暖かいぬくもりを忘れてしまい、お互いのハリについてばかり考えるようになっていたのだろう。それが苦しみなのか、つらさなのか、友情なのか愛なのかはわからない。

KはKなりの努力と懐を備え、Kなりの使命感をもって演劇に臨んでいた。それは感動的なまでにすばらしいことだった。それについていこうとする俳優たちもいたし、ファンもいないではなかっただろう。しかし、それにもまして、例えば人の柔らかい感情を刺激するとか、舞台空間に架空の世界を幻視させるとか、そういう所がうまくつかめていなくて、それは見ている側からももどかしい思いを重ねさせるものがあった。そのもどかしさをKは責任をもって反省し、少しでも人のやわらかい部分にアプローチできるセリフやプロットを考えていた。しかしそれはパントマイムに抵触する。あるいはうんちくと抵触する。そこぬけの明るさで演出されるパントマイムシーケンスとの折り合いの付け方を、Kは何年も悩んでいただろうと思う。

Kは数年前に同人誌を出したときに、男と同棲する演劇人の小説を書いていた。男はそれなりに敬意を払うべきクズとして描かれていたが、小説内の女は男のことを愛していることを深く感じさせた。その小説中に、僕が書いた感想めいた文をうけて、深く傷ついた――心動かされた――記述が出てくる。小説的な虚構の中でその動揺はしれっと流されつつも後段への展開をうながすエッセンスではあったけれど、ぼくは何かその「一言」が、そこまで二人の関係をいいえていたのかと思って、うれしいような悲しいような気持ちになっていた。その小説の彼氏は男だったが、読みようによっては非常に女性的にも思えた。Kの記述は叙事的で、対面して話したときの軽妙さを感じさせない乾いて無感情な記述を貫いていた。

Kの舞台には悪役が登場しなかった。みなが似たような価値観をもって登場し、似たような話に共感していた。僕はそこに悪意や虚無が必要であり、少なくとも4つあるフォーカスの一つをなんとかするためには、そうした「暖かくて強くて優しい共感の渦から離れていくこと」が必要だと思っている。そのことはたぶんいままで2度伝えた。

でも僕はKにもKにもその周りにも、たとえば決定的に改良できる箇所や、魅力的になる方法や、批評家にとりあげられそうな概念や、あるいは自分自身、僕自身のことをうまく伝えられないままに何年もたってしまった。何年もたつうちに、まだ幼さや野心や希望をあふれ出していた少女たちは自立して働き、自らの生き方をえらぶ女たちになっていた。

そのなかで舞台を「えらんだ」ことはえらいことだと思い、しかしそうした舞台の中、あるいは外に反応なり、期待なり、あとはなんだろう? そうした思いを抱くような善意の洪水を演出するたびに、ちょっと呆れてあまえるなよ、と思うことがあった。思うことはあったが、でもその一方でそうした甘えかたに応答できなかった。今回の作品は銀河鉄道が深海に沈む話だった。南海トラフ。僕はもっと甘えるべきだと思った。

****

Kの本にも、Kの本にも、家族というファクターが極めて稀薄なものとして登場する。極めて稀薄になってしまうのは、父親が不在だからだ。父親というはもちろんリアルなパパではなく、象徴的な権力関係を指し示す。そのたびに僕はいままでに4人の女性と、二人の男性からきいた「わたし\あたし\ぼく、お父さんがいないんです」という声が複雑な耳鳴りのように響いていた。父親を無くした少女からその告白―あるいは宣言―を初めて16年まえから、ずっと、その言葉を聞く度に自分自身のより善い応答をしようと思っていた。父親のように、威厳有る王のように、あるいは安心を与える医師のように。最高の詞を返す準備をしていた。何年も、何十年も。

自分はそのすべてに失敗していた。数年かけて飲み込んでいったであろう「父がいない」という事実をあっけらかんと告げる重みにいつも耐えきれなかった。そのたびにあいまいな返事や軽妙なだじゃれを返してひんしゅくを買い、失望と、失望を得た。失望させたことをまるで計算であるかのように言ってはいたが、いつもそのことで何日も眠れないぐらいに気に病んでいた。

「おとうさんがいないんです」「でもお金に困っているわけじゃないです」「問題は自分自身が、そのせいで人となにかすれちがっていること」「なにがちがうんでしょうか」「たたたさんには失望しました」「気をゆるしたんですが、もうゆるしてません」


やめてくれ。

わかっている。


Kの家族構成は効いたことがないし、きく必要もなかった。ただ、家族のような暖かい場所をのらくらとさがしつづけるゲキコミの舞台のあたたかさに僕はもう応じることはできないだろうと思った。あるいは応じるべきなのだろうか、それもよくわからなかった。

KもKも、少しやれば誰もが絶賛する圧倒的な才能には恵まれなかった。けれども、何年もかけて思想と技術を磨き、少しずつ彼女たちなりの世界を磨いてきた。そうした成長を見るのは楽しいことでもあり嬉しいことでもあり、時には同じぐらいの苦痛もあった。

いつも思っていた。Kにはもっと幸せになり、その幸福の隘路にある悪意にも気づき、あわよくばそうした善意が悪意によってノホホンと悪に変わる瞬間があることを知ってほしかった。Kはより安定した状態と心を手に入れ、焦燥や疲れにおびえなくてよい環境やぬくもりを手にして、休んでいても、疲れていても、自罰も自責もしなくてよいことを学んでほしかった。

あるいは両方とも手に入れているのかもしれなかった。

***

ゲキコミの舞台には、イイヅカさんといういつも制作をやっている女性がついていた。イイヅカさんもしばらく見ないうちに、華やかになって、前口上も会場挨拶も、チケット管理も上手になっていた。立派なプロの制作さんだなあと思った。

今日、いままでみてきたものがすべてひっくり返るぐらいの大傑作だったら、プレゼントをKにあげようと思って持っていた。どうしようもない駄作だったらそのまま帰ろうとおもっていた。

いろいろ考えて、イイヅカさんが幸せに、そしてたくさんの観客を動員できる制作になれるように、イイヅカさんにプレゼントをあげることにした。喜んでくれていたようだった。うれしい。あげたのは演劇の集客に役立つ神様だ。

もしかしたら、明日の千秋楽に神様がいるかもしれない。まだ席はあるときいた。110分の舞台だった。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。