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2017年、期待の星はかなく消える。

人はよく星に喩えられる。大きな仕事を成した人が亡くなったら「巨星墜つ」とか書かれるし、ちょっと昔には「一番星」という言い方も生きていた。そもそも芸能人は「スター」だし、織田裕二の映画で『県庁の星』というのがあった。原作は漫画でしたっけね?

若きエースは「期待の星」と呼ばれるが、最近そういう表現がなくなったような気がする。若き、はよく使う。だが、星にはなれないという事が多い。僕もちょこちょこメディアを見ていても、スターであるかのように取り上げられながら、スターまで追掛けてくれない小さなメディアの多さには、何か言葉を失うような気持ちになる。

なんでそうなったのか。一つはいろんな価値観が多様化しすぎて「大スター」が生まれにくくなったということがある。価値観、には直接メディアの種類の多さみたいなものも含まれる。

もう一つが、ほんの十年前に比べて「消えやすく」なったことだ。

いまでは考えにくいことだけど、ほんの5~6年前は女子高生作家がもてはやされていた。文学の話ではなく、ウェブの話だ。女子高生作家たちはごく極めて限られた技術と、独特の発想でフラッシュや画材を作り、Twitterやインスタグラム(は当時はあまりなかったかな)で告知することでバズを作り上げた。そして、そのようなバズで儲ける事を思いついていた。

 しかし、そんな女子高生作家たちの大半はそのまま製作をやめてしまった。あるいは、時代についていかなかった。理由は単純で、彼女たちはみんな「飽きられる」早さとすごさをよく知っていたのだ、と思う。飽きられないためにはどうすればいいのか、という戦略もいろいろあるのだけれど、「基本飽きられる」ということを前提にした戦略があまりにも多い。

 それをあおったのがウェブ広報戦略の一つである「バズ」だ。ウェブ業界の人と話すと、大体4割方ぐらい「バズ」るにはどうしたらいいかという話になる。そんなのは簡単で、広告料ぶっこんでいろいろ告知してもらうのが一番てっとばりやい。次ぎにてっとりばやいのはバズるまでネタを投下し続けることだ。

 大体、お金が潤沢にあるならば後者を考える必要はない。だから、ウェブの世界ではつぎつぎに「ネタ」になる人を燃やし続けている。それは天まで届くかもしれない木々を土ごと種のまま燃やし続けているのだ。

 そうでなければ、いじけて誰もいないところで誰もみていないことをし続ける、ということになる。ウェブはもっと継続性と持続可能性をもつべきだ。それは単純な「力量」や「スケール」の問題ではない、ということは間違いない。

爆速で「期待の星」を燃やし続けないように、そういう仕事をしていきたいものです。でもぼくにはそれは難しいかな。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。