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いわゆる「男の料理」について

 「男の料理」が要請する「豪快さ」とは具体的にどういうことなのだろうか。

 結論だけいえば、それは「配慮をしないこと」につきる。かつて高校までの家政科は女子だけの科目であって、男が「家政」を担うことは、対外的な部分ではあっても恥とされていた。家政を担わないというのはつまり、家のことについて知らないでいることなので、家の経済や家の掃除や家の洗濯などのやりくりから離れた魔法の趣味として「料理」をするのが望ましいといった時代があったのである。

 1960年代の雑誌をめくっていたら「男の料理は豪快にいけ!」という煽りで、加山雄三がマグロ(?)をつるし切りにしている、もちろんカメラ目線で、といったよく分からない図版を目の当たりにした。

 普通マグロはつるし切りにしないし、カメラの前の演出といったところであることは疑いようもなく、慣れた手つきで身の半ばまで巨大な包丁を差し込んで笑顔をむける加山雄三はさすがに「男」といった風情があった。

 60年代にはすでに「男の料理」という言葉があったらしく、ちゃんとメモをとって来れば良かったとあとになって後悔している。

 豪快な男の料理。これは専業主婦が家を担い、男は外で給与を稼ぐというわずか20年ほどしか持続しなかったモデルが描いた夢だった。専業主婦諸氏も「しょうがないなー」と言いながら料理を趣味とする〈男〉を生暖かい目で見ながら、普段は買わない蕎麦粉とか得たいのしれない調味料を横目にみながら溜息をついていたことだろう。男の料理は「家庭」を向いていなかったのだ。

 男の料理が配慮をしないというのは現代でもあまり変わらない。

 加藤諒が誰かの女優と一週間暮らすという番組を以前みたとき、朝から「最高の出来の親子丼」を作った加藤諒に対して、女優さんは「朝から親子丼て・・・・・・」と呆れと怒りをない交ぜにした表情で親子丼を食べていたし、朝のお料理番組として定番と化したMOCO’Sキッチンでも、視聴者を挑発するかのような追いオリーブ、手紙の文面無視、瞬間に召喚される分量外のローストビーフといった暴力的な絵面で人気を博している。

 もちろん、加藤諒ももこみちも責めてはおらず、タレントというよりもこうした絵が求められるテレビの料理番組こそ責められるべきだろう。料理番組には歴然たるジェンダーがあり、早朝から作るお弁当だの、家事終わりに余り物でつくる昼ご飯だのを料理番組が作ることはない。

 しかし、男の料理には、無意味エネルギー過剰な華やかさがある。普段は食べない食材を調理してみたり、蕎麦打ちしてみたりといった家計や食べる人への無配慮は、腸内フローラに侵入する乳酸菌(殺菌済)のように刺激を与えることもあるだろう。それならば外食のほうがよいのではないかと思うが、自宅でやることには大きな意味がある。

 ただし、その意味づけを行うのは男の料理が無視する「家庭」の側である。

 世の中は残酷なのだ。

 話はこのあとクッキングパパにつながっていき、美味しんぼにおける結婚後の料理トラブル、深夜食堂における夜食などについても触れていきたい。行きたいが、ともあれ加山雄三はすごい人気であった、といったことだけを記して擱筆する。

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