昨日までの世界、今日からの世界。

本棚から文庫本がこぼれ落ちていた。おまえはここに居たのか、と感慨深い。

神林長平『ライトジーンの遺産』


神林長平といってピンとくる人は「SF読み」だろう。『戦闘妖精雪風』、『敵は海賊』などのシリーズを読みあさった男性も多いはずだ。僕が神林長平を知ったのは『戦闘妖精雪風』がアニメ化された後で、そのあと、妙に惹かれていろいろ読んだ。

その中に『ライトジーンの遺産』もあった。

当時ぼんやりした本好きの大学生だった頃、ほんのり横恋慕している女性がいた。目が悪くていつも人をじぃっと見るクセのある、かわいらしくて、とろんとした女性だった。読書家で、メフィスト・ファイスト系の作家、特に西尾維新が好きだったはずだ。当時、なぜかお互いに好きな本を交換することがあって、西尾維新が好きなら、と『ライトジーンの遺産』を渡したのだった。

本を返しながら、ひとこと、こういわれた。

「こんなつまんない小説はじめて読んだ」

この話は続かない。

***

一昨日から急激に、ぼくの抱えている問題を神林長平がすでに考えていることについて、考えをめぐらせていた。それは「昨日までの世界はない」ということだ。

近所では建物の建直しが最近急ピッチで進められていて、縁側があって、窓はガラスで、庭に梅の木が植えてあるといった牧歌的な掘っ立て小屋は「古民家」としてこぎれいにならないと生き残れず、やたらと堅牢さをアピールする部屋の暗そうな家が次々と建てられている。そういう家しか知らない世代にとって「昭和」のような揶揄的な記号にしかならない昨日までの世界が、すさまじい速度で世界を平らにならしていくのをマザマザと見ている。


ノスタルジイと謂われるそれと格闘している作家。それが神林長平だった。そのことに気づいたのは、数年前。『伊藤計劃トリビュート』のなかで、神林長平が電子機器越しに死んだ伊藤計劃と対話をするという意味不明な小説を読んだときだ

キャリアも圧倒的に高く、おそらく面識もない(親しい友人ではない方)神林長平がなぜ伊藤計劃と対話をしたかったのか。その謎はこの「数年後」、つまりつい一昨日発覚する。

神林長平の近作に『誰の息子でもない』がある。

原発事故以降の世界\アジア太平洋戦争を描いた『誰の息子でもない』は、父と子の物語であり、同時に電脳世界における疑似人格のつながり(アバター)が実際の対面を越えるかどうかという思考実験でもある。そしてなにより「昨日までの世界」が技術によって消されてしまった後でも、人の情念は残るのかどうかを問い続ける小説だ。

これは、さらに近作である『フォマルハウトの三つの燭台』ではより先鋭的なAIと時間軸を失った神の使いと人間との対話という、ネジの外れた異種族間交流のなかで「人間」がAIと神の使いとにそれぞれ乗っ取られるという救いようのない間抜けさとなって描かれるようになる。

これを読んでいて、伊藤計劃と神林長平は「子と父」なのではないか、と思った。ハードSFの旗手として、文字通り流星のごとく現れた伊藤計劃は、神林長平にとっての子供だったのだろう。でも何の? 二人は、血族や肉体によって受肉される縁では結ばれていない。

結ばれているのはハードSFという、あるいは物書きという頼りのない輪っかだけだ。そして、伊藤計劃の父には他の候補もあがる。例えば月村了衛。例えば福井晴敏。でも神林長平はたぶん伊藤計劃が過ぎていった過去を象徴する人物だった。

過去。もうなくなってしまった昨日までの世界。神林長平はそれを描こうとしていた。過去の世界を否定し、破壊するあらゆる技術や先端的科学を縦横無尽に取り入れながら、昨日までの世界、が残した無数の課題をぼくらに突きつける。

その課題の最たるものは「自己同一性」のそれ。二つ目のそれは「人間の代わりとは何か」。3つめはこうだ。「猫はかわいい」。伊藤計劃も西尾維新もこの3つめの課題は引き継がなかった。

この話も続かない。



***


文庫版『誰の息子でもない』に、西尾維新が帯を寄せていた。『ライトジーンの遺産』を渡したあの子がみたら何ていうんだろう。いや、こういうはずだ。「ふーん」って。

その人が何をしているのかは知らない。結婚して子供がいて幸せに暮らしているだろう。そこそこの幸福と、テクノロジーの恩恵と、明日への希望をいだいて、幸福に暮らしているだろう。

なお、この思い出話を、7歳年下のバイト仲間にしたところ「マジで気持ち悪いです」というありがたいお言葉をちょうだいすることとなった。

僕は昨日までの世界にいる。

君たちは未来の世界を宜しく頼んだ。




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