忍ヶ丘駅_01

それは「発達障害」なのかなってこと。

僕がよく使う駅は三年前に問答無用で作り替えられ、ロータリーを完備したきれいな駅前になった。それまでは「とりあえずあるだけ」のどうでもよい各停駅の一つだったから、それからしたら随分進化を遂げたものだ。

 近く・・・・・・でもないが、大学が三つある。うち一つは最寄り駅といってよい位置にあり、残りの二つはバスで通わないといけない。バス停が駅から離れていたころは学生がうるさいみたいな苦情もあってもめていたらしいから、まあなるべくしてなった改装ということだ。

 で、改装してから大声おじさんが現れた。大声おじさんとは、だみ声で通行人を叱りつけるオッサンだ。各停駅には一人はいる。たいていの大声おじさんは10分も説教をすると疲れて帰ってしまうのだが、そのオッサンは違った。朝いくとなりふり構わず怒っている。夜に見かけても怒っている。これはタフネスあるおっさんである、と僕は思っていたが、どうもそれは水曜日にだけ出没するぞだ、ということに有る時気づいたのだった。 

 それをみていた女子大生が「発達障害だ」と言っていた。そうか、と得心した。これは「発達障害」なのか。という得心だ。便利なマジック・ワードだし、人生経験の少ない女子大生たちにとっては「キモい」だけのおっさんを理解しようとする言葉としてはこれ以上ないぐらい適切なものだと感心した。

 たぶん「発達障害」という言葉は、ある人の性質を表すのに使われるのではなく、人の特定の言動を示すのに使われることがある。それが発達障害として診断されうるかどうか、というよりも、世の中にあるキキカイカイな動きや言動を常民が理解するためのワードとして使われているのだ。

 これは、ひとつの人類史的な進歩なのかもしれない。おっさんの動きは一つの病気(未病かもだが)の中にカテゴライズされ、必要や場合に応じては保護の対象にもなる。差別と偏見だけがあった時代とは大きく違う。

 でも、この人を病気だと認めてしまえば、彼がすごしていた普通の月曜日の意味は大きくそがれてしまう。それは病気が無理をして普通をしているのと変らないからだ。

 しかし、僕は月曜日にそのおっさんが普通にあるいて、普通に電車にのり、普通にいらいらした様子でどこかに出かけるのをみてしまった。やつれた顔をしていたが、普通だった。普通のおじさんだったのだが、水曜日になると酒を飲みながら相変わらず説教をしていたのだった。

 おっさんにとっては水曜日「だけ」が発達障害になってしまう日なのだろう。こんな人はたぶん、少なくない。息抜き、ストレス解消、溜まったものがあふれ出した。いろんな言い方があると思うけど、なにかの病を露骨に感じさせる瞬間に対して、沈黙を守ってすごす日常はおそらくもっともっと長い。

 たぶん、障害と正常、日常と非日常。この間をうめる安心を与えるもう一つの魔法の言葉がどこかにある。それを探さなければならない、と思う。魔法の言葉に頼るな、魔法の言葉に頼れ。そういうことだ。

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