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自分の限界を悟るタイミングなんて人それぞれだよって話。

天元突破グレンラガンの再放送をやっていて、まだ二話だ、見よう、と思ってしばらくみてたら急に息切れしはじめ、そこそこヤバイと思ったらやや過呼吸になったので見るのをやめて水をのんだ。

もう自分はたぶんグレンラガンを見ることができない体になってしまったのだ。

グレンラガンは気弱な青年シモンが、兄貴分の義兄弟カミナに導かれながら成長し、カミナの死後にはグレン団という革命勢力を背負って戦う物語だ。ストーリーは劇団☆新感線の中島かずきが担当していて、一言でいうと熱い。やけどしそうなほどの激熱が画面全体から吹きこぼれてきそうなほどの盛り上がりを毎週毎週見せつけられ、それをひっくり返すほどの絶望と悲劇が絶え間なくやってくる。

この前が「大江戸ロケット」つまり劇団☆新感線の代表作(でいいんだよね)のアニメ化で、面白いはまあ面白いけど忍たま乱太郎を不出来にしたようなデザインやらなんやらで今ひとつ感が拭えず、しかし演劇ファンを一定アニメに導いたことでは評価できるかもしれない作品からは、アニメとしてのクオリティが格段、といっていいぐらいに上がっている。

あれ、グレンラガンのほうがあとだよね?

で、グレンラガンには2つの元ネタがある。一つは最終話「天の光はすべて星」の元ネタでもあったフレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』だ。”The Lights in the Sky Are Stars"が原題だけど、過不足なくというかたぶん英題よりもずっと訳がいいと思う。

この『天の光はすべて星』という本は、グレンラガンを読んでからこちらを読むと絶望しか感じないだろう作品で、宇宙飛行士だった男が飲んだくれになり、またチャンスを掴めそうになってトレーニングに励むものの、けっきょくダメになって飲んだくれにもどる(たぶん)という救いのない話だ。少なくとも僕が読む限り救いはなかった。所詮飲んだくれだもの。

これはまさにグレンラガンがやりたかったテーマの真逆を走るテーマだった、つまりフレドリック・ブラウンが描いた「人間としての挫折」を、真逆に走らせたのがグレンラガンにおける「ドリルで天を衝け」無謀の表現だった。

無謀ではあるが、輝いていた。「無理を通して道理を蹴っ飛ばせ」というフレーズがグレンラガンにはよく出てくるがこの「道理」と「無理」は、「運命」と「宿命」と言い換えてもいい。運命に敗北するか、宿命を乗り越えるか。グレンラガンの主題は徹底して後者だった。

そうやって考えてみると、このノートをもそもそ深夜に書いているあくらぎたたた氏は、もうどこをどうあがいても運命に惨敗、というか連敗中の身であり、見ていて辛くなるのも当然だろうと思う。

グレンラガンの面々が、若さなり希望なり戦う敵なり、守るべき家族なりをエンジンにして進んでいくさまは、たとえばエンジンもなくし燃料もなくし、ただ惰性に見をまかせてクラゲのように生きている人間にとっては「かつて、なれたかもしれない自分の姿」以外のなにものでもないことに思い至る。だってクラゲなんだもん。

クラゲは自分にはドリルがないことを知っており、もはや泳ぐ力もない。だが肝心なことは、どのタイミングで人は自らがクラゲであるかを知るのかという事に尽きる。それが、ぼくはたまたま「グレンラガンの再放送だった」ということである。

つらい。でもグレンラガンでよかったのかもしれない。結局才能や努力や体力がないものは死ぬしか無いのだ。

グレンラガンの「ドリル」ワンモチーフで徹底的に物語を勧めていくメソッドについては、またブラウンとは違った元ネタがあったと中島かずきが自ら書いていた気がするんだけど思い出せない。

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