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HUNTERXHUNTERとロストジェネレーション

いろいろないきさつがあって、近くのスーパー銭湯に行った。うちの近くにはやたらめたらスーパー銭湯があり、そのうちの一つはアルカリ性で黒くて肌がつるつるになる愛すべき銭湯なのだった。

いろいろ説明をはぶくと、その銭湯で岩盤浴セットまで購入してのんびり過ごそうと考えていたはずであった僕は、なぜか富樫の『HUNTERXHUNTER』(以下ハンタ)を10巻から28巻まで読む事になった。

ハンター28巻では会長と王との戦いが描かれる

伝説的な百式観音零式が発動。蟻の王に致命的な打撃を与えるかと思いきやそれは決定打にならず、ネテロ会長は敗北した。そして、会長が命をかけて戦い終わったところまで読んだ。

G.I篇、NGL篇に入ってからのハンタは明らかにグロ描写が増え、好んで使う構図が変わった。連載時とコミックス版との絵が乖離しはじめたのもこのあたりからだと記憶する。

ハンタで会長が戦うシーンの直前を読みながら、実は全然別のことが頭をよぎった。『ロスジェネ4』という本の話だ


かつて、ロスジェネという思想運動が世界を動かそうとした事があった

失われた20年のうち、後半10年間の就活難や不景気で泡を食った世代を「ロスト・ジェネレーション」といった。

この呼称は民主党政権の大敗と管理主義的な自民党政権の登場によってほとんど死語になってしまったのだが、あとひとつ歯車がぶっ飛んでいたら、「ロスジェネ」は今の40代半ば~20代までを覆ったかも知れない。みな貧乏で、裏切られていた。そしてなにより傷ついていた。

その中で生まれた貧困を基盤とする社会運動を、広く便宜的に「ロスジェネ」と呼んでおく。ロスジェネ。この呼称にもいろいろな含意があり実際に動いていた人たちの動向も細々あり、そのいくつかは医療や社会保障で人々の意識を動かすことになったのだが、その中でいま僕が取り上げようとしたのは『ロスジェネ』という雑誌の最終号となった『ロスジェネ4』の話だ。

買ったのは文学フリマだったと思う。

ロスジェネ4とは、小説のあとに批評と絵があり、そして長い対談がある本だ

上製本に銀箔押し、対談と批評と小説のシンプル極まりない構成で、対談は大沢信亮と、杉田俊介の二人によるもので三つもある


対談の中では文学や生権力に加えて、『ハンター』についてかなりの言及がある。その分析はかなり、というか、一つの「ハンター論」として成立するぐらいの密度がある。ただ、これらは対談のあちこちに現れるので、要約しにくい。

いまポイントになるのはハンター協会会長のネテロと、蟻の王との対決だ。ネテロは王よりはっきりと弱いことが何度も示されており、それはつまりハンター(人間)よりも蟻(キメラ・アント)のほうが強いという越えがたい種族的なーーつまり努力ではどうしようもない差異を示している。

対談を読むに、二人は間違いなくコミックス版ではなく連載原稿を見ているようだが、その言及の多くは人外の蟻の強さと、最強の老人との両者がもつ相反する魅力についてのものだ。

ネテロは42才で、強くなってから、感謝の正拳突き1万回を行った。その努力と長時間の鍛錬によって圧倒的な強さを手に入れた存在として描かれる。一方で蟻の王は、あらゆる期待を背負い、それに見合う強さを最初から手に入れている強者として描かれる。そしてネテロは負ける。

ロスジェネとはまさしく「長時間の努力と鍛錬をすべて無にされた」世代であり、運動だった。一方で「最初からの強さがあれば、そのような無に抗えた」世代でもある。

2000年代に大学生を終えた世代が、就職や昭和的価値観のライフコースの押し付けによってどれほどの苦汁をなめたか、その苦汁の味を「にがい」ということを上の世代にどれほど嘲笑われたのか、その苦汁を後ろの世代に吸わせないためにどれほどの犠牲と、血を流したのか。それを説明するのは難しい。

その時代に生まれた二つの思想、強い保護主義と、ネオリベラリズムと呼ばれる強者たちの世紀の宣言によって、就職難やフリーターを選択しなければならなかった人々は、社会保障から裏切られた。存在がそもそもいなかったことにされた。その人達は、「サバイバル」(生き残り戦術)と「抵抗」(一蓮托生戦術)に、自分たちの思想を託した。脱構築や構造主義や「シラけ」ではない。

サバイバル(サヴァイヴ)という言葉がやたらと流行った10年間だった。その地獄はもう忘れるべき段階にきている。でも、その時に、生き残りと抵抗の両方を示し続けていたのが、『ハンター』という作品だったのだろう。

なぜか、ロスジェネ世代には、『少年ジャンプ』論を書く人が多かった。対談にでている杉田俊介さんもその一人だ。彼は介護士でもあり、優しく厳しい批評を書いた。インタビューでなんども公言しているが、杉田思想の根本には「偶然」がある。交通事故を起こしてしまった杉田は、その時の賠償金をたまたま家を売ることで払うことができ、たまたま介護士になれ、たまたま大学院にいて、たまたま書けるようになった。そこで思い知るのが「無能力」だ。

杉田俊介のキーワードに、偶然が押し付ける神的な暴力性に対する、無能力者の振る舞いがある。

社会科学における「データ」や「エビデンス」はそうした一度のたまたまで根こそぎ変わる人生のあり方を示せない(一応いうと、そうした人生は所詮はひとつの「事例」に回収されてしまうが、この事例に対して、「革命的な社会学はない」社会学は何もしてこなかった、というわけだ)。

大事なのは、数を減らすことではない。偶然・運命との付き合い方だ、というのが真に人文学者たる杉田さんの基本的な思想であると僕は理解している。

『ハンター』はG.I篇以降どんな能力を持っているかわからない敵と、一回一度の会敵でやり合うしかないというハンターの覚悟の偶発的な要素を強調しはじめる。

だからこそネテロと王との戦いは、絶望的なものではあってもどちらが勝つかわからなかったし、どちらが勝利したとしても一定の説得力を持つバトルとして描かれていたことにはロスジェネと『ハンタ』ーの微妙な関係を思わせる。

『ハンター』には、絶望に絶望を与えられていても、ひょっとしたら勝てるかもしれない、というあわい期待に対する態度、すなわち無力に対する態度がある。

それはもしかしたら作者の姿なのかもしれない。

14巻(だったか、メモをわすれた)、最後に「子供が生まれました~」という幸せそうな報告以降、作者近況を告げるコラムページは一切姿を消してしまう。その後には永遠に続くかのようなバトルの解説が細かく細かく秒単位で行われ、グロテスクな描写が増えていく。

ロスジェネたちはハンターを見ながら、その遅々として進まない物語に、絶望の時代を見ていた。

杉田 それこそ、ネテロが一五〇年かけて積み上げてきた能力すら及ばない、現実の無慈悲さがあるのかもしれないね(大澤返答を中略)人間としての個の徹底の果てに、世界への感謝(敵へも感謝する)ですら足りない無慈悲な現実の前に全部が砕け散った先に、なお「一人じゃない」という感覚が芽生えるとしたら……。

そのあとに続くのは「あれは後続する若者たちへの信頼ということなのか。まだわからないけど」とある。僕もまだその続きを読んでいないので分からないけれど、死んだ時に小型核爆弾を爆発させる老人が、後続を信頼しているのかどうかは、よくわからないね。

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