念力珍作戦

ルパン三世の実写映画で「念力珍作戦」という作品がある。

僕は元気だった頃わりと映画が好きで、よく映画をみていたけれど、そのとき「念力珍作戦」を見て非常に深く失望した記憶がある。

クソ映画である。


クソである理由は星の数ほど上げられる。当時はこの「ルパン三世 念力珍作戦」と「ノストラダムスの大予言」の二本立てで上映された。

端的にいってこの世の地獄である。

それでもよく念力珍作戦のことを覚えているのは、つまるところ異様に画面が暗かったからだと思う。念力珍作戦の後半はほぼ全編にわたって夜であり、夜に半裸のルパン(らしきなにか)とほかのみんなが全力ダッシュするシーンで終わったような気がしている。

本作品がどれほどクソ雑魚ナメクジであるかを口角泡を吹いて説明するのはたやすい。たやすいが、見直すと苦痛で死ぬかもしれないので見直さない。でもこのクソ映画はみんな笑ってしまうぐらいに真剣に演じていた。そこがなんだかすごく切なかった。

最近ふと気づいたのだけれど、僕らは所詮「クソ映画に出てくるクソ俳優」に過ぎないのだと気づいた。たいていの事柄は「クソ映画以下」の出来事でしかない。映画にすらならないようなくだらないことで満ちている。昔SUNの広告で、「一日のビジネスシーンは60万時間の映画に匹敵する」というものがあった。でも、60万時間の映画のなかで、使えるのは20分かそこらだろう。

むかし、ある俳優さんが「つまらない舞台のときはどうするんですか?」と聞かれて「がんばるんです」と応えていた。そうか、がんばるのか、と思った。つまらないものを面白くするために全力を尽すのか、と思った。あるいは、つまらなかろうと面白かろうと全力を尽すのか、という風に感じた。

今日、人と話していてそういうことを思った。同時に「全力でがんばるためにはいくつものハードルを越えなければならない」ということも思った。

そのハードルとは結局最終的に一つ「覚悟」に収斂する。


とてもすぐれた小説を書く女の子がいたが、その子は自分の家族や周りに対する憎悪で溢れかえっており、そこからあふれ出たどす黒い感情だけが小説の形をとっていた。それから何年か経って小説を学び、小説を書くことで怒りをコントロールする技術を学んだ。人を理解するために関係性や小道具が必要なことをしった。怒りに怒りで立ち向かう必要が無いこと、愛が男女の間にだけ存在するものではないこと、嘘です、と最後にいってのける自由。ちゃんとがんばれば、ドラマの原作ぐらいは書けそうだったけれど、もう書かなくなってしまった。

怒りが消えたからだ。

僕も最近そういうことを感じている。怒りが消えてしまった。悲しみで覆い尽くされてしまった。そうした時にそれでも続けるのは惰性か覚悟のどちらかがいる。どちらもなくしてしまった。

無くしてしまったあとで、無くしたことの惜しさに気づけない。ただそれが「クソ以下の何か」だったことだけをしって、それを笑って、一日を終えるのだ。まさにクソ以下。

「念力珍作戦」の最後は、ルパンが「これでおしまい」とカメラにむかっていって終るのだった。でも、江崎英子の峰不二子はよかったような気がしている。ルパン三世の原作では♂と♀がはげしく動いてセックスするクソみたいな演出があるが、それが忠実に再現されている。再現されているがゆえに、峰不二子は体の関係をもつ女として表象されてしまう。しまうが、それでも峰不二子はよかった。クソ映画みたいな人生でがんばると、そういう「よかった」が残るかもしれない。

残らないかもしれないけれど、それが残ることにベットできる覚悟が、ほしかった、なー。

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