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官製女子とそのモデル

コメント返し

 前記事にこういうコメントをくれた方がいた。

fuldagap  よのなか ごく普通に院で社会学を学んでいる女性を何人か知っていたのでもやもや。「学者の処女性が讃美された特殊な時代の産物」っていうのは逆でああいう方向の外見の新しいキャラ付けとして「社会学」が発見された気がする 

 僕は「はてなブックマーク」を付けてくれる人を「尊師」として拝むぐらいに文化資本が高いと思いこみたい人間なので、はてブのコメントは基本的に問題があるあれあれな人達以外は大事にしていきたいと考えている。

 たしかに逆で、「外見の新しいキャラ付け」として社会学が発見されたというのはあるかもしれない。これは社会学ではなく民俗学(たぶん現代民俗学という範疇に入る)ラブホテル研究で新書をだされた金益見さんなんかも、こうした文脈で読取られてしまった一人だと思う。

 ただ、金益見氏しかり北条かや氏しかり、僕はリスペクトを欠かさずに読んできたつもりである。ゼロ年代後半戦では大量のなんだかよくわからない「女子ライター」とよくわかるけどコンサバファッションではない「女性ライター」が登場してきたけれど、彼女たちに強い光があたることはなかったと思う。それはやっぱり裏側に○○学しかり○○研究という文脈があり、その上に大文字の(つまり「典型的な」と言い換えられる)『「女子像」』がのっかってこなかったからだ。とか書くと怒られそうだな。ごめん。

 ただ、僕がおもんばかるに、たとえば超絶大文字『「女子」』が付く文学研究者や計量災害学者や古生物学者が出てこなかったから、先だってのコメントにあった「社会学の発見」というのはやっぱり当っていたのかもしれない。

10年代の「官製女子力」

 そして10年代の中盤戦は、こうした「発見」された領域に「女子力」やら「女の子の発想」やら「働くママ」やらついでに「古き良き日本の良妻賢母」とか日本会議とかが乗っかって意味不明なカオスに巻き込まれ、「女子とは・・・・・・」のようなそもそも論が前提抜きに議論されたり、無謀な研究機関が官製女子をつくろうとしたりという地獄そのもの時代が到来してしまったように思うのである。こう書くとまた怒られそうだな。ごめん。

 しかし、北条かや氏について触れるためには、「官製女子」については触れておかなければならない。「官製女子」というのは、カワイイ化(テクニカルターム)してしまった公官庁の気が触れて「女子力をみがく」だと「女子力ある○○員」だのを紹介し続けたり無謀な公共事業を投じたりするあれだ。その典型例としては宗像市の女子力大学構想があげられる(リンク・ただしあえてこのページとしたのには理由があります)。

 こうした「女子力ある女子」というトートロジーの模範は北条かや氏であった、というように小生には思われる。

 明らかに田嶋陽子氏や上野千鶴子氏といった優れたジェンダー研究者ではなかったし、多くのジェンダー研究者やアクティビストたちが望んだような女性の地位向上を官製女子作成班はまったくなそうとしていない。

 その官製女子の権化として登場した人物として小保方晴子氏がいた。僕はこうみえても小保方氏のファンである。研究内容とかやったことはすべからくクソだと思うが、文学性あふれるテキスト、かわいらしさのある動物のスケッチ(非実験ノート)など、そこには理研のおっさんたちが夢見た官製女子としての素質がすべて詰め込まれていた。理研のおっさんたちをバカにしてはいけない。僕だって理研のおっさんたちが夢見た官製女子のありかたを晴子氏に見ていたのだから、同罪だとののしられても仕方ない、ぐらいの気持ちである。

 知性があり、業績があり、美人で化粧が上手で、未来を担うリーダーシップ、家族を思いやるストーリー、そして男性をやけに尊敬し、クソ五月蠅いジェンダー論などいわず、黙々と実験にあけくれ、研究費で愚痴をいわず、部屋やぬいぐるみに清潔感を持たせる、「他とは違う才能のある女の子」。

 しかしながら、このような官製女子があらゆる角度からもろくも崩れ去ってしまったのは、上に掲げた条件は全て時限爆弾だからだ。才能は涸れる。知性には種類がある。業績はスランプにおちいる。化粧をしている暇だってなくなるだろう。部下がダメならリーダーシップもなくなる。金は尽きる。精神だってずっと安定してはいない。人は弱い。嘘だってつく。ストレスも溜まる。ネタも尽きる。こうした人の弱さを受け止めるような要素を「女子」という概念の殻はもっておらず、「官製女子」は官製であるがゆえに失敗も認めないし路線を変えることもできない

 宗像氏の女子力大学構想は、今では資料が全部非公開になっているけれど、ようするにこうした「弱音をいわないオルゴール」を育成したかったのだろう、と想像するに堅くない。そのオルゴールとしての役割を10年代の女子たちは求められていて、おそらくそれに完璧に答えて見せた稀有な例だった人達がいま壊れ始め、新しい戦いに身を投じている。あるものはより弱き者の救済を、あるものはプリキュアに救いを求め、あるものはメンヘラ化を・・・・・・という具合に。

いまも好きだって書くような男こそやれるんだって、僕は思うんだ。

 というコメントももらった。うるさいよ。だけど僕も、念のため今も好きだといっておいたほうがいいのかもしれない。でも、それは僕にとって官製女子力への敗北も意味してしまうから、いわない。

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