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「先生」はわたしが決める。

えらい職業の人のことを「先生」と呼ぶのが慣習になっている。

主に政治家、医者、学校教員等であるが、たまに園芸家も先生とよぶらしい。

僕は通訳も先生と付けて呼ぶことにしている。

通訳すら「先生」と呼ぶぐらいのポンコツ先生狂いの僕だけれど、えらい職業だから「先生」と呼ばれているだけなのに、「自分がえらい」と勘違いする輩が陸続と登場するのは見ていられない。いたたまれない気持ちになる。

学芸員をガンと呼んだ大臣もきっとみんなから「先生」と慕われているのだという、この苦しみである。

でも無能と偉さはまた関係がない。では何と関係があるんだろう。

一例を挙げよう。

僕は体が強くはない。そのせいで「まともな高校」にも、光ある生活もできなかったけれど、その責任の一端はたぶん一人の先生にもある。

なにせ僕は町一番の藪医者をみずからの主治医として仰いでいる男である。その藪医者はとても上品で身のこなしが軽く、十分に天才的な「先生」としてのオーラを放っている。しかし診療はミスがおおく、誤診がおおい。投与する薬もころころ変わる。

その先生にかかってから、しばらく経過をみて、僕が町一番の名医であるところの「おっさん」の所にいき、ただしく診療してもらう。おっさんは先生としての威厳がなく、おっさんとしてのおおらかさもなく、陰湿で患者の悪口を平然といい、また自らも不健康である。しかし、だいたい「先生」と「おっさん」の間を行き来すると治る。

学校の教員の多くはお互いに「先生」と呼ぶ。その場にいるのは生徒であって、道を説く相手だから、誰であれ教員免許をもって教壇にたって時間を潰す職能があればみんな先生だ。そういう約束でなりたっている。

僕がずっとむかし、体が悪くてたまらず、夜眠れず、朝起きれなかったとき、美術の先生が「横になってるだけでも体力が回復するからそうやって横になって起きれるように努力しなさい」と言っていた。愚かな僕は美術の先生による医療診断を信じて、寝れない夜にはベットで横になり、眠れないことに罪悪感を感じ続けて寝た。そして眠れなかった結果朝起きれなかった。

現代の睡眠医療では「横になったら回復する」という言説はファンタジーであることがよく知られている。よく知られているが、美術の「先生」がそのことを知らなかったのも仕方ない。なにせ「美術の先生」だからか。

いや、美術でも「先生」なのだ。

僕は先生に盲信した。その結果が、人生にあとをひく深い後悔だった。

その後も僕はたくさんの「先生」にであってきた。

でも、その先生の言うことをちゃんと聞いて生きて行こうと思えた先生は結局、上記しるしたポンコツの内科医だけだ。それでもいいと僕は思う。そうあるべきなのだ。

誰が何の先生であるかは自分自身で決めるべきだ。そういう世の中が来る事を、本当は祈っている。



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