不確実性の不登校

『涼宮ハルヒの憂鬱』が英語教科書に乗るらしい。音楽ではポケモンを始めとしてピカチュウが、理科では名探偵コナンがすでに登場しているから「一歩遅れて」ハルヒが登場することになったわけだ。

 とはいっても、『涼宮ハルヒの憂鬱』はもはや子どもたちの心をつかむ作品ではないかもしれない。文章も悪くないし、文学的で、孤独を感じさせて、楽しくもあり、SFとしても良くできている。それでも、現代に生きている「友達地獄」や「SNS村八分」といった恐怖にさらされている学校環境とは大きく異なる世界である。

 このたびハルヒを読み返してみて、考えてみれば本の十年前のことながら、こんなにも牧歌的な環境があったのかと改めて感心した。ハルヒの世界では、もっとも長い時間描写される場所として「放課後の喫茶店」がある。意外と知られていないようだけれど、ゼロ年代中葉には、青春を過ごす場としての「学校」は機能不全をおこしかけていたのだった。

 そのことでふと思い出すのが、1999年から2005年ぐらいまで集中的に取り上げられた(その後ももちろんことあるごとに取り上げられてはいる)「不登校」問題である。不登校児童たちがそのまま大人になり、ニートやクズという呼称を与えられて社会問題になりはじめた、矢先である。不登校問題は学校の問題であるというよりも「クズ」をめぐる問題系としてまず設定されていた。恐らく当時熱心に不登校問題を解決しようとしていた学校の先生達も含めてそのような認識はなかったと思うが「このままだと彼はダメになってしまう」という焦りが不登校問題を余計に深刻なものにさせたと覚しい。

2002年か、3年ごろに、NHKが特番として不登校について特集を組んだ。不登校だったニート200人を集めて、矢井田瞳(なつかしい!)が応援するテーマソングを歌うという身も蓋も内容もない駄番組だったが、そこにいた人達が「こわい真剣さ」でその場所に臨んでいたのがすごく怖かった。

番組終り間際で、いかにもニートっぽいおっさん(たぶん俳優だと思う)が、「誰も悪いんじゃない、僕も悪くない、学校も親も悪くない、ただこうなってしまっただけだ」と力説していて、それに一同力強く頷きながら大半のテレビ局員は「あまえやがって」という空気を醸し出していた。そのあとに矢井田瞳(なつかしい!)が何故か歌い出す。

 その歌詞が、「もっと体をつよく~、もっと心をつよく~」というような、90年代前半のフォークソングのような自己責任論を押し出したNHKには責任有りません的な無内容な歌で、僕はすごく感心した。NHKは、子供達や周辺者たちの主張をこのような形で「無」に変えてしまう力があるのだ。

 それはそれで「たいした演出だあなぁ」と思っただけだったけれど、今思えば「体をつよく、心を強く」というメッセージソングは極めてよく出来ていて、何にでもいくらでも適用できる。そういうメッセージが社会の表側を覆い尽くしていて、だから裏側にはそうしたことを全部無視した日常がずっと続いていて、一方で巨大な黒幕が自分が知らないうちに暗躍しているようなお話がすごく好まれていたんだろう。

 でも、コンテンツカルチャーは本質的にそうした「各自体を強くせよ」といった不毛な話と縁切りするためにある。各自強くなるのはよい。しかしそれではどうにもならない絶望や、強さでなんともならない孤独や、そんなものほっといてもなんとでもなるような日常を描くものだった。英語の教科書もまた、そうしたハルヒの文脈を尊重してもらえたら嬉しいけど、こういうこというとうるさい人も多いからもうどうでもいいや。


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