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猫が手を貸してくれて、豚が歌を歌う日。

ちょっと前、日本語がこれでもかーっていうぐらい上手なアメリカ人とことわざの話になった。

なんでそんな話になったか、よく覚えていない。いや、うそ、覚えてる。というのも非常に単純明快な話で、「日本語が(あるいは英語が)うまいってどういうことなんだろうね」という話をしたから。

猫の手を借りる

で、これは非常に単純に解決がついた。ようするに「いろんな表現を知っているとうまいなって思う。とくにことわざを知ってるとすごいと思うよ」とのこと。それはそうだろう。音韻や発音の見事さももちろんあるけれど、意味が通じなきゃ意味が通じない。でも通じる意味をもった時、言葉は生きる。

それでことわざの話になったときに「最初は猫の手も借りたい、って意味がわからなかった」という話をされた。なんで忙しいの意味になるのだろうというのが質問の趣旨だったのだけれど、そういえばなんで猫の手を借りる事が、忙しいの表現になるのだろう?

彼はそれから「猫の手を借りるって、猫と一緒にじゃれあって遊ぶのかとおもったよ」と、言った。なるほど、と思った。

部屋に猫がいる。時間が流れている。そして猫がふああ、とあくびをして、空中で手をぶらぶらさせる。ぼくはそれを「ちょっと借りるね」といって握手して、遊ぶのだ。

いい風景だなと思った。

傷ついた人も猫の手を借りさえすれば、何かすごく幸せになれそうな気がしたんだ。

豚が歌う

ずっと昔、これまた日本語がべらっぼうに上手なドイツ人と和歌を詠んでいたとき、散った桜の花が河に流れて、まるで橋ができたみたいっだという歌を読んだ。Daniloさんの、こういうのだ。

急に彼が「豚が歌をうたってるみたいだね」と言った。僕はびっくりして、いろいろ考えた。いろいろ考えて「豚が歌うぐらい、詩的だね」って答えた。同意のつもりだった。そしたら彼はきょとんとした顔をして、大爆笑した。ツボったらしかった。

豚が歌を歌うっていうのは、ありえなーい! ってことだよ」と彼はいった。桜の花がまるで河を覆い隠してしまうようなそんな情景はありえないのだ、という彼の認識はそのあと覆され得ることになったけれど、きっとドイツ語のことわざに淵源をもつであろう「豚のうた」を、東洋人の僕が詩的だっていうことが彼にとっては想定外で、でもちょっとだけ同意を含んだ「詩」だったのだ。

そのあと、ずっとあと初めてあった中国人の男性に、中国語には「本を読むことはよい、しかし本を読み、実際にその土地にいくことはもっとよい」ということわざがあることを教えてもらった。かれに「俚諺」を「ことわざ」というんだという説明すると彼は醤油できれいに「言 技」と書いて、「とても、芸術的ですね」っていって笑った。ぼくはそうか、芸術、と深い同意した。紹興酒がおいしかった。

僕は結局どこにも行けなかったけれど、誤解とことわざがつないだ不思議な、いろんな光景を忘れることはないと思う。忘れたくない。

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