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小説を読む才能と友達の小説を読む才能

アイドルを批判しようと思ってアイドルの現場にいく人はいない。

劇場は批判と批評、もうちょっとあれな言い方をすれば評価の目線が針のように刺さる場所だと思う。だからこそ舞台は芸術たり得るのだろう。

小説はもうちょっと幅広い視線にさらされる。小説を読む読者もまたいろいろな目で小説を見ている。それは思わぬ角度からの非難だったり、また無知への叱責だったり、いろいろだ。

僕はそういうひろい視野角をもたない人間だったのかもしれないと思う。

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友達が小説をかいてくると、「ふうん、こいつはこういう人間なのか」と思ってしまう人間である。僕はたぶんそういう型式の人間だ。

だから、人妻の小説家が、人妻らしからぬ小説を書いてきた時にその人妻らしからぬ人妻さを読んで「人妻・・・・・・」と思うことがよくある。まずその「人妻・・・・・・」という感想を押し殺すところから僕の読書は始まる。

二次創作を読んでいてもそう思うことがある。数度ほど二次創作の小説を書いたことがあり、原稿を載せてもらったことがある。二次創作の小説は案外くらい話がおおくて、それは作品そのもの(原作)に対する熱狂を知っていると不思議に思うぐらいのくらさだ。

その暗さは何に由来するのか。

人だ。

そういう話をしたら、本職の編集から「そりゃおかしいし、小説が実際の人間の反映なわけがない」といわれてしまった。そりゃそうだ。そりゃ当たり前の話だ。小説家のフィクションがどれだけ現実に近いか(モデルにしているか)は、読者が決めることであって、読者がこれはノンフィクションだと思っても作者はフィクションです嘘ですといって切り抜ける権利がある。

でも、友人の創作を見るときには、見てはいけない秘密をのぞき込むような秘奥がある。絵画であっても陶芸であってもそうした秘奥は隠れている、と思う。

それは、日常的な会話では絶対に開陳しない内面だったり苦しみだったり喜びだったり、ときに性癖や嗜好だったりするかもしれない。

あるいは、どんなときでも見て欲しい本当の自分の姿や、本当は成りたかった姿かもしれない。それはわからない。それがどういうものなのかも結局読者が決めることだ。

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それでも、小説の感想を求められた時にはテクニカルな部分や構成についてだけ話す事が多いけれど、なんどかは未熟な作品をそうした「本当の私」の声だと信じて全肯定したことがあった。それは単純な全肯定ではなかった。もっと、小説、ひいてはフィクションはそういう方法で人生とあいわたるべきものだという全肯定だったはずだ。

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田辺聖子『センチメンタル・ジャーニー』はいま読むと古色蒼然たる恋愛小説だけれど、それに収載されている小説の一つに「家族をモチーフに書いた小説のせいでみんなから責められる話」という身も蓋もない話があった。そのタイトルがおもいだせない。

動画は松本伊代のセンチメンタルジャーニー。

こういう「友達の小説」をいままで数知れず読んできたけれど、でも人と作品を切り離さずに読んできてよかったのかもしれない、と最近思う。恋愛禁止のアイドルたちは「あなた」に向かって恋愛を歌うけれど、たぶんそれは本当に心底からの虚構だからこそ、人のこころをうつ。

人の心をうたない奇妙さは、だから人の真実をさらけだしている。そういうことがある。そういうことを見逃して何が小説だ。ひとつひとつのシーンには意味があり、意味を連ねるには感情がなければならないはずだ。

という話をしたら、それはセクハラだと云われた。ショックだった。何の反映でもないセックスシーンに欲望を見いだすのはセクハラだというのだ。

高度だ。

僕にはとうていまねできない。

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