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「サヨナラ」に対して人が紡ぐことばについて。

お昼休みに中島らもさんのエッセイ『愛をひっかけるための釘』を読んでいたら、こんな文章が出てきた。

この世のものならぬ至福の中に自分があればあるほど、いつかそのめまいに似た幸福に終わりがくるであろう予感も確固たるものになってくる。

(中略)時代が変わり、人が変わるたびにさまざまな表現で言いあらわされるけれど、本質はすべて同じことである。「生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)」「会うは別れの始めなり」「君よ盃(さかずき)受けとくれ、どうぞなみなみつがせておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」なのだ。

あいかわらず中島らもさんの書く文章はユーモアと知性と研ぎ澄まされた感性にあふれて素敵だな、と思っていたのだけれど、この文章の「君よ盃(さかずき)受けとくれ、どうぞなみなみつがせておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」という引用にものすごく惹かれた。

「サヨナラだけが人生だ」という言葉はよく聞くけれど、それってもともとはこんな文章だったんだ、ということを(お恥ずかしながら)初めて知った。調べてみると、井伏鱒二の訳詩だということを知る。

どんなに綺麗な花が咲いていても嵐で散ってしまうように、どんなに仲が良い友達でもいつかは別れがくる。だからどうか私と盃を交わしてほしい……そんな意味だそうだ。

そしてさらに調べていると、この井伏鱒二の詩を受けて、寺山修司がこんな文章を書いていることも知る。

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている野の百合 何だろう

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば
建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば
人生なんて いりません

この2つの詩を読んで、なんだか心がぎゅーっとなったわけです。

「サヨナラ」について人が思いを馳せるというのは、いつの世も同じなんだなあと思った。終わりがあるから人生は美しいということも、また、切ないということも、割り切れないということも、時には割り切れてしまうということも。

そういえば、私も「サヨナラ」についてこんなnote書いたことがあったなあ。サヨナラに対して人が紡ぐことばは、無条件になんだか美しいと思う火曜日の夜。


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ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。