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「社会的な分人モード」をぶっ飛ばす

さいきん、知人から「分人が多いよね」と言われることが立て続けに何回かあった。

自分でもわりと「自分の中に飼っておける分人の数」は少なくない方だな、と思っているのでべつに違和感はなかったのだけれど、なんでそんなことを言われるのだろう? と少し疑問に思った。


おそらく私のツイッターやFacebook、インスタグラム、noteなどSNSの使い分け方は「分人ごと」なので、それらのうち複数アカウントをフォローする人は、そのあまりの「別人さ」にびっくりするのだ、と思う。

私のインスタグラムのストーリーなんて90%酔っ払いだし、お恥ずかしい限りで、見るのはおすすめできない。逆に高校や大学時代の友達にこのnoteを見られるのもまた恥ずかしい限りだな、と、思ったりする。


飲むのが大好きでくだらないことばかり言う自分。まじめに仕事をする自分。純粋な恋愛小説に惹かれる自分。人間の狂気のカタルシスのような芥川賞作品に惹かれる自分。どうぶつの森を楽しむ自分。運が悪い自分。

そのどれもが本当の自分(分人)であるし、あえてそれをSNSという媒介を通じて少しずつ「小出し」するようにしている。私にとってSNSは、ブランディングのためのツールではなく、分人を小出しにするためのツール——いわば「分人小出し砲」なのだ、ということにふと気づいた。


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平野啓一郎さんは『私とは何か 個人から分人へ』の中で、分人が形成されるには3つの段階があると言っている。

まずひとつめは「社会的な分人」。これは、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」のことを指す。つまり大勢人が集まるパーティーやイベントなどで、いろいろな人に見せている自分のこと。

そしてふたつめが「特定のグループ(カテゴリー)に向けた分人」。学校や会社、サークルといった、もう少し狭いコミュニティにいる時の自分のこと。

そして最後が「特定の相手に向けた分人」である。いわずもがな、特定の相手のためだけに作る分人のことである。


私はこれらの中で、自分の「社会的な分人」がキライだ。見た目がおとなしそうに見える(らしい)がゆえに「まじめそうだよね」「おとなしそう」と言われ、それに対して「めんどくさいからまじめってことにしちゃえ」と思って作る分人。どこかいい子ぶってしまう分人。


だからいつでも、はやくこの「社会的な分人」をぶっ飛ばしたいと思っていた。


その時に、先にSNSで「社会的な分人」をぶっ飛ばしておくのは、コミュニケーションをする上で、はじめましての人と人間関係をつくっていく上で、私にとってとても居心地がいいことなのだ。

現に、ツイッターなどのSNSで知り合った人とは、かなりの確率で仲良くできているなあ、と思う。

自分のキライな「社会的な分人」をぶっ飛ばすための、分人小出し砲としてのSNS。わたしはこれからも、そうやってSNSとつきあっていきたいな、と思う、日曜日の夜。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。