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「不平等」を嫌わない

「平等」という言葉には、なんだかそれだけで正しいと思わせるような、不思議な力がある、と思う。

男女平等に。不公平なく報酬は平等に分配しましょう。世の中のいたるところから、「平等がいいよね」という、無言の圧力を感じる。

私自身、年齢の近い3姉妹の真ん中に生まれたので、幼い頃からいつだって「姉妹間の平等戦争」のさなかにいた。お風呂の順番、おかずやお菓子の量、親からのプレゼント、お年玉の値段。誰かが特別扱いをされることは決して許されることではなく、みんな「平等」であることが、正しいとされていた。

けれど、今思ってみれば、そういった類の平等さに、私は違和感を感じていたのだと思う。たとえばあまり私好みじゃないキラキラした時計だとかネックレスだとかを姉や妹が祖母からもらっていたとして、「あんたにもあげるワ」と言われて本当に心から嬉しく幸せに思うのか?と聞かれたら、自信を持って首を縦には触れない。お風呂の順番だって、お菓子やおかずの量だって、正直どうでもいいことは、たくさん、たくさんあったのだ。


そんなことを考えていたとき、私が勤めているサイボウズの社長の青野さんが、こんなことを言っていた。


平等は幸福ではないんです。たとえば目の前にあるケーキを3人で分けて食べるとするじゃないですか。普通なら日本人は律儀に3等分するけけど、実はその3人は、お腹が減ってない人、ダイエット中の人、お腹がペコペコな人だったりする。そうすると、その3人に平等に分配する必要はまったくない。3等分よりも、不平等の方が実は幸せになれるときもあるんです。サイボウズはそういう経営を目指しています。


この言葉を聞いたとき、ああ、そうだよな、と思った。人間はひとりひとり違うのに、そのひとりひとりの求めていることや個性を考えないで「とにかく平等にしていればいいんでしょ」とすることは、逆に不幸にもつながりかねないよな、と。

もし、求めていることがまったく同じで、どうしても決まらないときに「平等にしましょう」とすることはいいと思うけれど、そうでない「平等」は、捨ててもいいのだと思う。男女不平等が幸せにつながることだって、きっと世の中には存在するのだ。

ひとりひとりをきちんと見ることは、どんなときでも大事だよね。そんなことを思う、木曜日の夜でした。西麻布のフレンチ『HOUSE』が、すこぶるおいしかったです。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。