「もう嫌だ、やめたい」と思ったときに思い出す言葉

川村元気さんの小説に、『四月になれば彼女は』というものがある。正直内容はあんまり覚えていないのだけれど、その中の「とある一節」だけは強く印象に残っていて、そしてその一節が、最近、ことあるごとに私の頭に浮かび上がってくる。

浮かび上がるシチュエーションは、たいてい、何かを「嫌だな」「続けている意味あるのかな?」「もう、やめたいな」と思うとき。仕事で嫌なことがあったり、彼氏とケンカしたり、自分がやっていることに意味が見出せなくなったり……。そんなときに、ふとその一節が頭に浮かび、そして、ハッと我に返る。

そう、たいていのことは、「ハッと我に返る」のだ。だからその言葉を持ってしても、やめたい、離れたいと思ったときに、私はいろんなことを、やめたり決別したりするのだろうな、と思っている。

「私たちは愛することをさぼった。面倒くさがった。些細な気持ちを積み重ね、重ね合わせていくことを怠った」

これが、その「一節」だ。

たしか、旦那との関係がうまくいかず一度は別れかけた妻が、やっぱり共に生きようと心に決め、物語の終盤シーンで呟くセリフだったと思う。自分たちがこれまでうまくいかなかったのは、お互いが、愛することをさぼったからだ。そう呟くのだ。

「もう嫌だ、やめたい」と思ったとき、自然とこのセリフが頭に浮かぶ。そして私は、自分自身で問いかける。

私は、さぼってはいないだろうか? 恋人、友達、仕事、または嫌だと思う人生の諸問題に対して、本当にさぼってはいないだろうか?

そう問いかけると、たいていは、自分が「何かしらでさぼっている」ことに気づく。最善の努力ができていなかったり、改善ができそうなのにやっていなかったり、どこかで「まあいいや」と妥協してしまっていたり。本気でやれば、本気で向き合えばできそうなあれやこれやに対して、向き合いきれていない自分が、そこにはいる。

その「さぼっている自分」に気づくと、「まだまだだな、もう少し頑張ってみようかな」と、そういう気分になれるのだ。

私は今まで、いろんなことを続けられない人間だった。アルバイトも、部活も、恋愛も。でも、私が今までやめてきたあれやこれやは、きっと、「やめざるを得なかった」のではなくて、「もういいや」と諦めてきたものだったのだと思う。きっとどれもが、どこかで「さぼって」いたことばかりなのだ。

最近は、ようやく人生において、継続することの楽しみを見出せるようになった。続けることで得られる喜びがあることに、ようやく気付き始めたのだ。

だから私は、自分が自信を持って「さぼっていない、けどやめたい」と思えるときまで、この言葉と共に、いろんなことを続けていきたいな、と今は思っている。


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あかしゆか

よもやま雑記

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