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何もない「ただの人」になる瞬間

大学生の頃、いったい何を思ったのか、ローソンの工場でサンドイッチを作るバイトを5日間したことがあった。

ピンクの工場着を着せられて、指示されたベルトコンベアの指示された場所に立つ。お弁当、お惣菜、サンドイッチなどさまざまな種類のベルトコンベアがある中で、私の担当はサンドイッチのそれだった。

パンの上にマーガリンを塗る人、レタスや何か他の具を乗せる人、できあがったサンドイッチを袋に詰める人。ベルトコンベアの上で行われる流れるような分担作業の中では、ミスをすることは全員の手を止めてしまうことを意味していた。


水色の工場着を着ているのがパートの人たちで、彼女たちは驚くほど速いスピードで作業をこなしていた。息子や娘の反抗期の話、ご近所さんの愚痴話などを言いながら、私がベルトコンベアを止めるたびに、決まってわざとらしいため息をつく。

私を含めたアルバイトたちは、男女問わずに揃って「ピンクちゃん」と呼ばれていた。名前で呼ばれることも、優しく話しかけてもらうことも一度もなかった。どうせ数日間でやめることがわかっている私たちには、アイデンティティがなかったのだ。

彼女たちから見ると、私に「あかしゆか」という人格はなく、何もない「ただのピンクちゃん」なんだなあ、と思った。


シーンは違えど、アイデンティティも何もない「ただの人」になる瞬間が、日常の中にはごくたまに存在する。

タクシーの運転手さんと話す数十分や、ふと駅で話しかけられたおばあちゃんと電車を待つ数分間。もう二度と会わないであろう「互いを知らなくてもいい」関係性にある人たちとの会話の中では、人はしばしば「ただの人」になる。

ローソンのアルバイトをしていたその当時は、何もない「ただのピンクちゃん」として扱われることに少し寂しさを覚えていたけれど、最近は、ごくたまにあるそれらの時間が、心地よいな、と感じることもある。

自分が自分らしくいなくてもいいというか、誰も私の個性に興味がないというか、そういう「ただの人」でいられる瞬間が心地よいと感じることが、たしかに存在するのである。


社会人になると、学生の頃以上に「何者かでいる瞬間」が増えた。サイボウズの社員としての私、フリーランスとしての私、Twitter上での私、大学時代の友達としての私。人生が、隙間なくいろんな分人の「あかしゆか」で埋め尽くされている感じ。

それはそれでとても楽しいのだけれど、ふとした瞬間に、やっぱり一息はつきたくなるんだよなあ。

知らないバーに行ってマスターととりとめのない話をしたり、スナックでママに話を聞いてもらったり、電車でふと隣り合った人に声をかけたりする人たちは、きっと私と同じように、ふとした瞬間に「誰も自分のことを知らない空間」で、「ただの人」になることを求めているんではないかな、と思う。

人は何者かでありたいと願うと同時に、何者でもありたくないとも願っているもんじゃないのだろうか。そしてそういった瞬間があることで、均衡を保つ生き物なのではないか。そんなことを高円寺で飲んだ帰り道、ふと考えてみたりする。今日も今日とて、酔ってるのであります。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。