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「特別」を、守り抜く。

自分にとって「特別なこと」が起きると、誰かに言いたくなる時がある。

それは、たとえば突然降られた雨のことだとか、偶然街で再会した昔の恋人のことだとか、ふと見上げた夜空がとても綺麗だったことだとか。

中には、特別すぎて自分だけの秘密にしておきたい、と思うこともあるのだけれど、往々にして「特別なこと」とは誰かに言いたくなるものだ、と、思っている。

「誰か」というのは誰でもいい。恋人でも、親しい友達でも、あまり仲が良くない同僚でも、ツイッターのフォロワーでも、たまたまバスで隣に座ったおばさんでも。

ただ、誰かに言うにしても、自分の中に留めておくにしても、私が大切にしたいのは「その特別を守り抜けるか?」ということだな、と、ふと思った。


たまに、自分にとっての「特別なこと」を誰かに言ったとして、「それ、べつに特別なことじゃないよ」「それ、よくある話だよ」と言われることがある。

そのたびに、「そんなナンセンスな返答ってないぜ」、と思う。もう、その人には特別なことを言うのはやめようと思うことだってある。

「自分にとって特別かどうか」ではなく、「世の中にとって特別かどうか」という視点を持つ人は、あまりにも多い。


「ふつう」だとか「特別」という言葉を、いつの世も気にしているこの世界。

それは、どうしたって人が人と関わりながら生きていかなければならない生き物であり、誰かと私、世の中と私、という相対的な世界の中で生きているからなんだろう。

普通な自分がいやだ。人とは違う特別な自分がいやだ。普通になりたい。特別になりたい。

ただ私は、「相対的な世界」ではなく、自分自身の中の「絶対的な世界」を大事にして生きてきたい。「ふつう」だとか「特別」だとかいう感覚は、周囲のそれとは交わらない、自分だけの感覚でありたい、と思っている。


好きな本に、庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』という小説がある。その中の大好きな一節に、こんなものがある。


ぼくが毎日いろんなことにぶつかり、そこで考え感じそして行動するすべては、はたから見ればどんなにつまらない既成概念(たとえばお行儀のいい優等生)に従っているように見えようとも、ぼくにとっては、ぼくのなかに『薫・薫・薫・薫・・・・・・』と銘をうってつみかさねてきた、ぼくの体験、ぼくの知識、ぼくの記憶、ぼくの決意、ぼくの思い出、ぼくの感動、ぼくの夢といった、つまりぼくのすべてとの或るわけの分からぬ結びつきから生まれてくるものなのだ。


ぼくには、このいまぼくから生まれたばかりの決心が、それがまるで馬鹿みたいなもの、みんなに言ったらきっと笑われるような子供みたいなものであっても、それがこのぼくのもの、誰のものでもないこのぼく自身のこんなにも熱い胸の中から生まれたものである限り、それがぼくのこれからの人生で、このぼくがぶつかるさまざまな戦い、さまざま、な苦しい戦いのさ中に、必ずスレスレのところでぼくを助けぼくを支えぼくを頑張らせる大事な大事なものになるだろうということが、はっきりとはっきりと分かったように思えたのだ。


「特別」というのは、こういうことだと思うのだ。

大切なのは、今、自分が特別だと思っているその気持ち、その感情だ。その特別を、同じように特別だと思い、愛し、認めてくれる仲間だ。たとえ共感はしてくれなくとも、安易な言葉で誰かにとってのその「特別な世界」を壊さないような、そんな人と一緒にいることだ、と、私は思う。

特別を、守り抜く。その特別は、世間にとっては普通だっていい。唯一無二の、あなたの、わたしの「特別」を守り抜くそのことこそが、大事なのではないかなと思う、土曜日の昼。こんなこと書いているけど、二日酔いです。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。