見出し画像

揺らいで、なんぼ。

「チョコレートを食べたら太るし肌が荒れる」という定説は、私が小学生・中学生の頃にずっと信じ続けていたもののひとつだ。昔から、家にあるチョコレートをモシャモシャと食べていたらお母さんには必ず「そんなに食べたら太るしニキビできるで」と言われたし、いろんな雑誌の美容ページにも「チョコレートは美容の天敵!」といったことが書いてあった。

だから私が高校生だか大学生だかそれくらいの歳になったとき、急に「チョコレートは実はダイエットや肌にいいという研究結果が出ました」などと世間で言われはじめて、私はとっても心が揺らいだ。「今まで私が信じてきたことはなんだったの?」と、まあ、そこまでとは言わないけれど、ダイエットを頑張っていた思春期の私にとって、それは結構大きなダメージを食らうニュースだったのだ。

このように、自分が信じてきた事実が実は違うかもしれないということが判明したとき、または、矛盾するいくつかの事実を突きつけられてどちらを信じていいかわからなくなったとき、人は、どうしたって揺らいでしまう生き物なのだ、と思う。人のことはわからないけれど、私の人生にはそういう瞬間が往々にしてある。

たとえば取材の仕方について、尊敬するAさんが「こうした方がいいよ」と言うことと、これまた尊敬するBさんが「こうした方がいいよ」と言うことがまったく逆だったりだとか、たとえばお寿司の食べ方のマナーについて、雑誌にはこう書いてあったのにテレビではこう言っていた、だとか、大きいことから小さいことまで、本当にいろいろ。

以前、私はそういったときに「なんで世の中はこうも矛盾だらけなんだろう、はっきりしてほしいな」なんてことを思っていた。いろんな意見を聞いて揺らいでしまう、どちらも正しいような気がしてしまう自分が嫌で嫌で、どちらを信じていいのか、とりあえず誰かに決めてほしかった。

何かに対して「揺らいでしまう」ことの原因はいたってかんたんで、自分が信じたいことを「他人任せ」にしているからなのだ、と思う。「どっちを信じていいのか、はっきりしてよ」などという言葉はその象徴。

チョコレートに関しても、チョコレートを食べ続けて自分が本当に太ったり肌が荒れてしまったりしたならば「チョコレートは太るし肌に悪いんだな」と思えばいいし、もしチョコレートを食べて肌の調子がよくなったのならば、そう思えばいい。

取材の仕方に関しても、AさんとBさんの両方のやり方を試してみて、自分にとってよりしっくり来た方を信じればいいし、もし両方違うなと思うなら、自分でやり方を探してしまえばいい。

「自分にとって、それらの事実はどう当てはまるか」が確認できていないから、きっと、揺らいでしまうのだ。他人事の事実を見つめるだけでは、「揺らぐ自分」からは抜け出せない。

そう考えるようになってから、私は、「いったん、揺れる」ことはすごく大事だな、と思うようになった。

いろんな価値観や考えを知らないまま、自分が「これだ」と思う直感のようなものを信じて突き進める人はたしかにこの世に存在して、そういう人はそういう人ですごいな、と思う。

けれど私は、何も知らないまま「こっちだ」と盲信して突き進んでしまう人よりも、たくさんの矛盾する事実や価値観を自分の中に取り込んで、揺れて、揺れて、いっぱい考えていろんなことを実践し、その先にある「自分にとって信じたいこと」を見つけ出した人の方が、「芯がある」なあ、と思う。

揺れた経験をして、そうやって自分の信じたい道を見つけた人は、なんて魅力的なんだろうと思う。だから、「揺れる」ことは何も悪いことではなく、むしろ、揺れてなんぼなんだと思うのです。

私も常々いろんなことに対して揺れまくっているけれど、少しずついろんな経験をしながら、自分の信じたいことが見つかればいいな、と思う金曜日の夜なのでした。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。