「フカンショウ」にはなりたくない、という話。

「フカンショウ」にはなりたくない、と、いつも思いながら生きている。

自分の心の琴線が動かない、動かせないような「不感症」もいやだし、なにごとも自分ごと化できず、客観的に、冷静に見すぎてしまう「俯瞰症」もいやだし、興味があるもの、人、そして自分の気持ちに対して「不干渉」になってしまうこともいやだ。

不感症、俯瞰症、不干渉。

これら3つの「フカンショウ」でいないということは、なんとなく、自分の生き方のモットーみたいなものだな、と、思っている。


去年の誕生日に、ある人から、こんなメッセージをもらった。

「生まれてきてくれてありがとう!優しくて、繊細で、時には世の中をモノクロでみつつも、そこに色を足していく感じすごい好きです。」
「色を沢山もってる分、人より沢山悩んだり、悲しんだり、無になったりするんだろうけど、それは才能でもあって、使いようによっては、多くの人を感動させれたり、生きがいを作ったりもできるんだろうから、向き合い方・捉え方だけがんばって欲しいです」


「時には世の中をモノクロでみつつも、そこに色を足していく感じ」という言葉が──なんというか、まさに自分の生き方を言い当てられたようで、ああ、やっぱりこの人はすごい人で、私と似ているんだなあとあらためて思ったことを、覚えている。


私は、どちらかというと、放っておけば「フカンショウ」になってしまいやすい性質だ。

基本的には、世界なんて自分がいなくても回っていくと思っているし、とんでもなく冷めた目で世の中の出来事を見てしまうこともあるし、自分の感情がめんどくさくなって、プツンと自らの感情の糸を切ってしまうことだってある。

このブログを読んでくださっている方から「あかしさんは、熱い」と言われることが増えたのだけれど、なんというか、それと同じくらい「冷たい」人間でもあるということを、ふと思う時がある。


ただ、以前書いたエントリ「人間、人間くさくあれ。」にも書いたように、「こころの面倒を引き受ける」ことは、とても大切なことで。

どうしようもなくモノクロに見えるこの世界を、自分なりの「感性」で色付けしていきたい、のだ。

だからこそ、常に自分の心の琴線は、敏感でありたい。時には世の中を俯瞰して見つつも、やっぱり自分の人生の主語は「自分」でありたい。興味があることには、ちゃんと首を突っ込んでいきたい。

放っておけば陥ってしまいがちな「フカンショウ」から脱することは、人生を彩り豊かにするために必要なことなんだと思う、土曜日の夕方。

今日も今日とて、飲みに行きます。新宿三丁目にある「海森2」というお店のハイビスカスビールが、とっても美味しくて好きなんです。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。