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人は「ことば」で世界や色を見る

世界は物質的には平等で均一だけど、人の見ている世界にはそれぞれ差があって、その見え方の違いが、「感受性」や「価値観」といったことばで表されている。そういった「人の見ている世界の差」を、色において感じられることが大好きだ。

村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』という小説の一節に、こんな青色の表現がある。

それは世界中の青という青を集めて、その中から誰が見ても青というものだけを集めて一つにしたような青だった。

世界中の青という青を集めて、その中から誰が見ても青というものだけを集めて一つにしたような青──。なんというキレイな表現なんだろう、と思った。

毎日の空の青色は違って、空と海の青色も違って、もちろんそれらは絵の具の青色とも全然違う。なのに「青」という一言でそれらは片付けられてしまっていて、それはすごくもったいないことだなあと思う。青だけに限らず、色はなんでもそう。色に限らず、この世界はなんでもそう。

ことばというのは、人の見ている世界を広げたり素敵にしたりする手段でもありながら、同時にそれらを単一で面白くないものにもしてしまい得る、とんでもないツールだ。

きっと村上春樹さんが「世界中の青という青を集めた青」という言葉を選んだ青色を私が見たら、「言葉に出来ないほどきれいな青」とか言うんだろうな、と考えて、少し恥ずかしくなったりする。

今公開中の映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』というタイトルも、夜空の美しさとか儚さをとても的確に表したすばらしい表現だと思うし、それを知ってしまってからは、どうしても、夜空を見上げたときに「密度」を考えてしまうようになった。

すてきな表現を知ってしまうと、もう、知らなかった頃の自分に戻ることはできない。


人はみんな、自分の目を通して世の中を見ている。青という表現が表す色の種類みたいに、70億人の人間が存在すれば70億通りの「世の中の見え方」がある。でも皆、その見方を表現する術を知らなくて、心がうずうずしている。と思う。少なくても私はそう。

ことばを知ることで、見える色や、世界は変わる。そんなことを考えていた時に、山崎ナオコーラさんの『指先からソーダ』というエッセイの中に、ハッとさせられる文章があった。


言葉で色を見ている部分があるのだ。自分に見える色とは、その一瞬にその物が放った光を受け止めた、自分だけの感覚だ。(中略)言葉を使いながら物を見たり、音楽を聴きながら物を見たり、人に触れられながら物を見たりすると、目に見える色がガラガラと変わっていく。


目じゃなくて私たちは「ことば」で世界を見ている。そうだよなあ。目はことばであり、心なんだよなー。

もっとことばを上手に操えるようになりたいな、と思う水曜日の帰り道。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。