「おめでたい人」がそばにいること

私のルーティンワークのひとつに、自分が可愛いなと思う女の子のインスタやらTwitterやらを定期的に覗くそれがある。彼女たちの可愛い姿や頑張っている姿、努力して美しくなっていく姿を見ていると、「ああ今日も頑張ろう」という気分になれるのだ。

ただ同時に、悲しいかなちょっとした妬みのような気持ちが生じてしまうときもある。「いいな、こんなに可愛くて」「スタイルいいなあ」などと、自分には持ち得ないものを持つ彼女らに、嫉妬をしてしまう。そして同居人に、「うらやましいなあ、私なんて……」などとぼやくのである。

そう、私はなんともめんどくさい、卑屈なやつなのだ。

そんなとき、私の同居人は決まって「ゆかが一番可愛い」と言ってくる。なんなら、常日頃から、石原さとみよりも可愛いと言ってくる(石原さとみファンのみなさんごめんなさい)。彼は足と口を開きながら寝ている私の写真を撮っては「可愛い」と言い、とうてい可愛くないでしょと思うような写真映りのそれに対しても「可愛い」と言う。

そんな彼を見ていると、本当におめでたいやつだな、と思う。でも、その「おめでたさ」に、私は、すごくすごく、救われている。

糸井重里さんの初めてのエッセイ集『ペンギニストは眠らない』(1980年初版)に、下記のような一節があった。

可愛い女とは、例えば誰みたいな人ですか。どんな女のことですか。と、こんな質問が、あった。この質問をした人は、たぶん不幸な人間である。

可愛い女というのは、いつだって、いまの自分の女である。当り前じゃないか。マリリン・モンローが、銀幕のむこうで、とびっきり豪華なウインクをしてくれたって、ベッドの隣で唇を半開きにしてイビキをかいてる女にはかないっこない。

ずいぶん、お目出たい考え方かもしれない。視野が狭い、客観的でない、自己中心的であり、幼稚的である。そんなことは、百も承知。世界にばっかり目をむけて、今日も元気に生きられるか。

徹底的に、自分のものを好きになる。そういうお目出たさが大事だと思うのだ。

「世界にばっかり目をむけて、今日も元気に生きられるか。徹底的に、自分のものを好きになる。そういうお目出たさが大事だと思うのだ。」

最後のこの3行の言葉選びの秀逸さには唸ってしまった。まさにその通り、「おめでたさ」は、今日を元気に生きる秘訣なのだ。

「おめでたさ」の効能が発揮されるのは、何も恋愛においてだけじゃない。自分が作り出したサービスに対して、自分が産んだ子どもに対して、自分の友達に対して、そして自分自身の人生に対して。誰かに無条件に愛してもらえること、そして信じてもらえることは、それだけで、これからを生きる糧になる。

視野が狭く、客観的でなく、自己中心的で、幼稚的な愛が、私たちの人生には必要なのだと思う。世の中で「当たり前」とされてきた成功のレールが崩れはじめ、自らレールを作り出さなくてはいけなくなっていくこれからの時代には、きっと、なおさら。

「おめでたい人」がそばにいてくれることの幸せを噛み締めながら、私も相手にとってそうでありたいなと思う、水曜日の夜なのでした。「ばかだなあ」と言いながらも、いつも感謝してるよ。


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あかしゆか

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