見出し画像

オセロをひっくり返してくれる人

先週、友人と立ち飲み屋さんで飲んでいたら、隣にいた知らないおじさんたちに絡まれた。最後お店を出るときに「今日の記念に1枚写真を撮ろう!」と言われ、私と友人と、絡んできたおじさんたちと、はたまたそのおじさんたちと絡んでいたさらに隣の人たちと、なぜか写真を撮ることになった。

後日友人からその写真が送られてきて、その1枚を見て私は驚いた。友人はちゃんと「楽しくなさそうな顔」をしていて、私は「楽しくなさそうなのに、無理に楽しんでいる顔」をしていた、のである。お世辞にも、そのときの会話の数々は「楽しい」と言えるものではなかった。

昔から私はそうだよな、と、その1枚の写真を見て苦笑する。楽しくないときにも楽しそうな顔をしようとして、結果「楽しくなさそうだよね」ってバレてしまうタイプなのだ。私は。

ちゃんと、楽しくないときに楽しくない顔ができる人はすごい。そんなことを思って、Twitterでつぶやいた。

するとそこに、別の友人が、こんなコメントくれた。

かわいい。コメントを見た瞬間に、笑ってしまった。きっと私がそうやって無理に笑っているところを想像して、「あかしらしいな」と思ってくれたのだ、と思う(ちがうかな)。

そして、それまでは「あー、あいかわらず自分ってしょうもないな〜」なんて思っていたけれど、単純な私は、この一言で、「別にこんな自分でもいっか、そうすぐには性質なんて治らないか」とすぐに気持ちが変わっていた。

このときに感じたのは、人の気持ちはオセロのようなものだなあ、ということだった。

事実としては、丸いオセロ──つまり事実がそこに「ある」だけだけれど、その面が「表(白)」を向くか「裏(黒)」を向くかは、周囲の環境で決まっていく。白い面を向いているオセロに挟まれていたら、白に。黒い面を向いているそれに挟まれていたら、黒に。

事実自体を変えることも、もちろん時と場合によっては必要だと思う。変わりゆくことは大切だ。けれどそれが前例のように、昔ながらの「自分の性質」だったりしたら特に──すぐに変わることは難しい。

だから、もしも自分の気持ちが裏の黒い面を向いてしまっているときは、周囲の人にその気持ちを裏返してもらえばいいのだな、と思った。黒い気持ちを裏返してくれるような人に、目を向ければいいのだな、と。事実はひとつ、でもそれに対する解釈はたくさんあって、解釈を決めるのはいつだって自分と周りの環境なんだから。

オセロをひっくり返してくれる人の存在は、いつだってありがたい。そういう友達を大事にしていれば、きっといつだってハッピーに、楽しく生きられるはず、そんなことを思う水曜日の夜でした。風邪が治ってきたぜええええ!

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。