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既視感に打ち勝て

「既視感」というものを、よく感じるようになった。

たとえば、誰かに嫌なことを言われたときもそうだし、逆にいいことを言ってもらったときもそう。音楽を聴くときも、季節の移ろいを感じるときも、二日酔いの朝を迎えたときも、日々出くわすいろんな出来事に対して「この感じ、なんだか味わったことあるなあ」と思うことが増えた。

それは25年間生きてきて出会った人だとか、体験したことだとか、考えてきたことだとか、そういった自分の過去が頭の中で前例として積み重なっているからなんだろうな、と、思う。

大人になるということは、基本的に私が子どもの頃に想像していたよりも、ずっとずっとおもしろいことだった。自由で、フラットで、どんどん世界が広がっていく感じ。事実、私は学生よりも社会人生活の方が何倍も楽しんでいる。

楽しんではいるのだけれど、唯一「大人になることのさみしさ」をあげるとするならば、いろんなことに対して前例ができて、賢くなって、それらを勝手にケーススタディして頭の中に溜めていってしまうということだな、と思う。

傷つけなくなったり、素直に喜べなくなったり、新しく出会った物事に対しても、どこか自分の中にある前例たちと比べ、俯瞰して見てしてしまう。

そんなとき、人の記憶力と学習能力というものは非常にすばらしい、かつ、切ないものだと思う。それらがあるゆえに人は人生をすぐに一般化しようとするし、それらがあるゆえに人は過去に正解を探そうとするし、それらがあるゆえに人は忘れたいことを忘れられなくて苦しかったりする。

たまに人から記憶力と学習能力を取ってしまったらどんな世界になるんだろう、と思う。

そんなことを言ったって、自分の中に過去つまりは前例が積み上がっていくこと、既視感が起こることは止められやしないのだけれど。

日々は止まってくれないし、生きている限り前に進むしかない。

だからせめて前へ進もうとするときに、その既視感にできるだけ打ち勝とうとすること、勝手にケーススタディしようとしてくる賢いのか馬鹿なのかわからないこの頭に「ちょっと待てよ」と投げかけ、毎日を新鮮に、前例に打ち勝ちながら生きようとすること。そのちょっとした意識が大切で、そうやって今日も生きていきたいと思うのです。

絶賛二日酔い。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。