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「選ばなかったもの」に想いを馳せる

「選ぶ」ことは、いつだって難しいな、と思う。

進学や就職、結婚、出産、といった「大きな選択」にはじまり、毎日何をしようか、何を食べようかといった「小さな選択」まで、あたりまえだけれど人生は、選択の連続、でできている。

何かを選ぶということは、すなわち何かを選ばないということ。何かを選びながら生きるということは、すなわち何かを捨てながら生きる、ということ。

そして、その「選ばなかったもの」に対してあーだこーだと言うことは、なんとなく、イケていないことだと思っていた。その「捨てたもの」に対しては、決して情を抱かない。それが、潔くてかっこいいことだ、と思っていた。


20代半ばという年齢もあってだと思うけれど、さいきん、周りには転職や結婚や出産といった、人生において「大きな選択」をする知人が増え、それにともなって、私自身も「選ぶ」ということについて考える機会が多くなった。

「いま、人生でめっちゃ大事な時期やんな」「選択に失敗して、後悔したくないよなあ」「タラレバ娘にはなりたくない……」

友達と話していると、いろんな声が聞こえる。昔に比べて結婚や出産、仕事に対する価値観が多様化したこともあってだろうか、選択肢が増えたその分、私も含めてみんな、「選択すること」に悩んでいるように、思う。そりゃそうだ、誰だって、選択に失敗したくないもの。


ABテストができない選択は難しい。どちらの方が自分にとって幸せなのか、ある程度検証してからすべて判断できればそれはいいけれど、実際、そんなにうまくはいかない。

「AさんとBさん、どちらと結婚すれば幸せになれるか、とりあえずABテストしてみようかな」なんてことは、できなくて。「子どもがいる人生と、いない人生、どちらが自分にとっていいのかな」なんてことも、検証することは、不可能で。

選択するということは、世の中完全に思い通りになるわけではないことを受け入れ、その中で自分の意思決定を行い、そしてその責任を取っていくということです。

これは、私が勤めている会社の社長が、先日言っていたことばだ。選択するということは、受け入れ、決定し、その責任を取っていくこと。ああ、そうだよなあ、と、思った。


結局「選択」において大切なのは、月並みだけれど、自分の中でありとあらゆることを考えつくし、最後は「選んだことに対しての責任をとる覚悟」を持つことなんだろうな、と思う。

ただ、その「選んだことに対しての責任をとる覚悟」とは、「選んだ道」に対してだけではなくって。「選ばなかった道」に対しても、責任をとること。それが、大切なのではないかなあ、と、ふと思った。


「"たられば"なんて考えても意味がない」と言う人は多い。けれど、私は、選ばなかったものに思いを馳せる時間というのは、決して無駄ではないことだと思う。

それはまた「後悔」とは少し違っていて──「そうなったかもしれない人生」も含めて、自分の人生だということを受け入れる、ということ、だ。

もしあの時あの選択をしていたら、今とはまったく違う人生がそこにあったのかもしれないという、人生が刹那的に連鎖してできていることを実感しながら生きる、という感覚。「選ぶ」ということは、「選ばなかった道を捨てる」ことではないのだ。選ばなかった道をも受け入れ、それ共々を含めて愛するということなのだ、と、今は思っている。

山形からの帰り道、銀世界を眺めながら「選ばなかった人生」に思いを馳せてみると、けっこういいもんでしたよ、ということが言いたくなった、火曜日のおひるやすみ。「山形の雪景色、すごーい」ってインスタにアップしたら、同じような景色が東京でも見られていて特別感が減りました。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。