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年を重ねることと、美しさ、について。

「25歳」という年齢は、世間一般では、とても若い、と思う。

まだ人生の半分──ともすると人生の3分の1すら生きていないかもしれなくて、電車で隣に座ったサラリーマンが「もう社会人生活20年目だよ」なんて言っている話を聞くと、ああ、この人たちは私が小学生になる前から社会人生活を送り続けているんだ、私はまだ何にでもなれるんだな、と、思ったりする。

けれど、世間一般の当たり前とか、周囲の年上の人に言われる「まだ若いよ」という声を無視したとすると、今年の誕生日を迎えた時、自分の中では、「25」という年齢はズシンときた。


思い返せば、今年の夏ごろに、三島由紀夫の『行動学入門』という本を読んだのがそのきっかけだったかもしれない。

その中の「美貌のおわり」という章の中には、「女は二度死ぬ」ということが書いてあった。

美貌の死と、肉体の死、と。

読んでいるうちに、怖い、怖い、怖い、という思いが頭の中を支配していった。


あるとき、晴れた空に一点の雲が突然あらわれるように、美しい彼女の目の下に一条の小皺があらわれる。きっと昨夜の寝不足のせいだろう、と彼女は考えます。事実、小皺はあくる日には消えている。ひょっとするとあの小皺は単なる気のせいだったかもしれない。二、三日たつ。今度は別の目の下にはっきりと小皺が刻まれる。これもきっと気のせいだろう。しかしこのほうは十日たっても一ヶ月たっても消えません。
(中略)
つまり美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のほうが恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知っているのです。


25歳。女としての、「若さとしての美しさ」の命は、あとどれくらい残っているのだろうか、ということを考える。

三島由紀夫も文中で「もちろん年齢にしたがって、いわゆる精神的な美しさは加わってゆくけれど」と書いているし、それはそうなんだとは思うけど、それとこれとはまた、別問題だ。

「若さ」という中途半端な外見の美しさが手元にある怖さを、そして、その寿命はもう半分もないのだという事実を噛み締めながら、25歳は生きている。

そう考えると、正直に、怖いと思ってしまった。しょうもないことだ、しょうがないことだと分かってはいるのだけれど、本当に、女にとってそれは、ものすごく怖いことなのだ。


そんなことを考えているときに、ずっと観たかった『人生フルーツ』を観た。


人生は、歳を重ねるほどうつくしい。


これは、映画中に何度も繰り返されていたことばだ。

なんというか、この映画を見て、上記に書いていたような「美貌の死」に対する怖さや不安が、一気にどうでもよくなった。

だって、つばた夫妻は本当に、美しかったのだ。

すぼんだ口元も、折れ曲がった背中も、皺々になった細い手足も、薄くなった白い髪の毛も。すべてが美しいなと、本気でそう思った。

誰かと、美しい歳の重ね方をしたいと思った。誰かを本気で愛する人の眼差しは美しく、私もあんな眼で誰かに見つめられ、そして誰かのことを見つめたい、と。

そして同時に感じる。「美貌」という美しさに、どれほどの価値があるのだ、と。


いつか美貌の死がやってきてしまったとしても、その時々に持っている自分の美しさを大切にしながら、生きていきたいと思う。女の人生は、その時々にしか出せない美しさが存在するのだ、と思う、年末の今日。金沢旅行に行ってきます。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。