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愛の総量と、その愛の配り方

以前ともだちと、「愛の配り方って人それぞれだよね」という話をしていた。

なんでそんな話をしていたのかはもう忘れてしまったし、きっと特に深い意味はなかったと思う。新宿三丁目の「喫茶らんぶる」で、珈琲をすすりながらダラダラと仕事だとか恋愛だとかの話をしていたら、なんとなくそんな話になった。

「たとえば愛をお金にたとえるとして、人が持つ愛の総量が1000円やとしたら、その1000円をどう配るかって人によって違うやん」「誰にも1円も配らずずっと握りしめておいて、運命の人に出会ったらそのまままるっとその1000円を渡すタイプとか、こだわりなくいろんな人に10円ずつ配るタイプとかさ」

「あかしはきっと、1円をいろんな人に配りまくるタイプだよ」と言われ、それは違うよと言いたかったけれど、その次にくるであろう「じゃあどんな愛の配りかたをしてるの?」という問いに対しては的確な答えを言える気もしなかったので、「そうなんかなあ」とあやふやな返事をした。

さいきん、中島らもさんの『世界で一番美しい病気』(装丁とタイトルがすこぶる良い)を読んでいたら、「愛の計量化」という章題のエッセイがあった。

我々の心の中では憎しみが愛情に変わったり、あるいはその逆であったりの変化が時々刻々(じじこっこく)と起こっている。その意味では万物流転の相がある。では愛憎の本質である心的エネルギーのようなものは定量であって不変のものなのだろうか。愛情には限界量というものがあるのだろうか。

(中略)

僕の個人的な意見としては、どうもこのエネルギーの総量には歴然とした個人差があるような気がする。

このあとには「126回結婚し、85人と離婚したケニア人のオグエラさん」の例が挙げられて、この人の愛のエネルギー量はものすごいよね、常人じゃないし真似できないよね、と続くわけなのだけれど、この文章を読んだとき、「人が持つ愛の総量が1000円」というその仮定自体がおかしかったんだなあ、ということに気がついた。

愛というのは、そもそも人によって持ち合わせている総量が違うのだ。それはきっと、生まれ育った環境によって「もともとの量」も違うだろうし、誰かから愛を受けることで増えたり、誰かに裏切られることで減ったりもする。

そして人間関係がしばしば「複雑」だと言われるのは、愛の総量が違うことによって生まれるその「1円の価値」の差からくるものなんだろうなあ、と、ふと思った。

愛の総量が1,000,000円の人が1000円を誰かに配ったとして、その相手の愛の総量が1000円であったとき、受け手側からすると「この人はマックスで私のことを愛してくれている!」という感覚になるけれど、渡した側からすると「たった1000分の1なのに……」と思ってしまう。

逆に、愛の総量が1000円の人が1000円すべてを渡したとしても、相手の愛の総量が1,000,000円の人からしたら、「これだけしかくれないの?」と不満に思うこともある、と思う。

だから、誰かを愛するときは、相手の愛の「1円の価値」を知ろうとすることが一番必要なのだと思う。人によって愛の総量がちがうということ。自分にとっての「1円の価値」が、誰かにとってのそれと同じ価値ではないということに向き合うこと。自分の絶対的な価値観を守りながら、その上で相対的に考えること。これは何も恋愛だけじゃなくて、すべての人間関係に当てはまることなんじゃないか、と思った。

そして個人的に意識しておきたいことは、愛の総量はただ多ければ多いほどいい、というものでもないような気がする、ということだなあ。「幸福度は年収650万円が一番高い」と言われたりするように、愛にも自分にとっての幸せの飽和値というものは存在するような気がする。

愛にあふれた人生を送りたい、と以前書いたし、今もそれは思っているけれど、それは多ければ多いほどいいというものではなく──自分にとって「居心地のいい総量」の愛でいいのだ。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。