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美大卒がデザイナーになれなかった話

※長いので太字の部分だけ読んでいただければ大丈夫ですよ。

突然ですが、私はムサビのデザイン学部卒業生です。美大出てデザイナーを目指さないとかなれないとかそんなわけ無いだろうと考える方が多数だと思う。

そもそもなぜ美大に行かせてもらったのか。
美術系で食べていくのに困らない方法はデザイナーとなって会社に就職することだと主張する親になるほどと思ったからだった。


よくある話だとは思うが中学生の時にエヴァというアニメに出会いまずはアニメーターになりたいと思った。そもそも幼稚園の頃から絵を描く(と人から褒められる)のが好きで竹内直子先生のような漫画家になりたいと思っていたが、どうせ漫画家になるなら大ヒットを飛ばす作家になりたいしかし全て自分で作り上げるのは無理だと心のどこかで思っていた。
高校受験が嫌なので中高一貫校へ通っていたにも関わらず、中学生の頃から高卒認定が取れてアニメーターやキャラクターデザインの勉強ができる専門学校の体験入学まで行っていた。編入しようとか考えていたわけでもなかったが、何事も早めがいいと思っていた。
もちろん両親には反対された。両親にというか父親へあげるまでもなく母親にシメられたので決議にも上がらなかった。私立中学に入るまでの塾代とか勉強した時間とかを考えたら当然の反応だ。私も学校が嫌いだったわけではないしホメオスタシスが働いて、編入はせずそのまま高校進学した。
アニメで食べていくのは大変だから、そんなに美術系に行きたいならデザイナーにしなさいと美大なら行かせてもらえそうな空気が出てきた。

だから私は、親に頼らず社会的に自立するためにデザイナーを目指し、
そのデザイナーになるために箔がつくから美大卒の人間になりたかったのだ。

そのはずだった。絵を描く(と人に褒められる)のが好きという人間はそこにしか成功体験がなく社会的に生きる依り代としている種類の人がいるが、それは私だ。
中高一貫校で勉強のコツもよくわからず美貌もない私のアイデンティティはただオタクで学外活動を盛んにしているということと絵が一般人より上手いということだけだった。しかし美大なんてデッサンのうまい人間はゴロゴロいるし、デザインを体得している魅力ある学生で溢れかえっている。
私はオタクに毛が生えた程度で美大に受かってしまったので、デザインに必要な構成能力や抽象化とかデザイン対象に対する知識と深い洞察とか、そもそもデザインにそんなものが要るということさえわからないし、わからないことさえわからないまま入ってしまったので、すぐに劣等感の塊になった。
そもそも学歴に拘りすぎて(美大に学歴も何も無いのだが、一般社会における国立ってなんだかスゲェの幻想に引きずられ)、仮面浪人までしてしまったので大学1年生という貴重すぎる時期に同窓生と必要最低限の関わりしかしておらず、何か魅力ある作品やデザインを生み出せたわけでもない。2年生からはバイト先が自分の居場所だった。

というかそもそも絵を描かない+作品を作らなくても生きていける人間だと気づいてしまった。今までは、絵を描く+作品を作ることでしか自分が高評価されず必要ともされず魅力さえ感じてもらえないと思い込んでいたから続けていただけなのだ。

途中途中で「絵を描く(と人から褒められる)のが好き」という表記を挟んでいたのはこういう理由だったからだ。仮面浪人して、落ちて、居場所のない校内をふらつくのに耐えきれず夜のバイトに入り浸っていた20歳の頃、そんなことに気づいた。
私の家庭はそこそこ裕福だったが私立美大の学費は無理だったので、祖父母に学費を出してもらっていたのにこのザマである。どこまでも自分が情けなかった。

自分が自分自身に評価しかしていなかった。自分しか肯定してあげられる人間はいないのに、描く前から作る前からどうせダメだからと思い何もしなかった。
自分を低評価するのは逃げである。低評価してどうせダメと言えば何もしなくて済むのである。何もしたがらない脳の性質にまんまと騙されているだけである。
そんなことにも気づかないままポートフォリオ(自分の作品集。人となりやスキルがわかるのでデザイナー就活には必須)に載せられない作品は作っても無駄だと思っていたし、作る前から良し悪しがわかるわけもないし、じゃあ何も作らないという悪循環のまま就活の時期がきた。

ポートフォリオも無い美大生に、作品も無い美大生に、デザイン面接ができるはずもなかった。当時根気強く探せばあったのかもしれないが、ポートフォリオを作るほどの熱もない人間が入社した後どうするんだという話。探す前に結局あきらめていた。営業はコミュ力的に無理、事務・経理系は正確性に欠けるから無理と考え、消去法で企画職とかMDなどの職種で面接を受けていた。

私なんぞがデザインしても、どうせゴミしか作れないので
もっと上手くてコミュ力ある人がデザイナーをやればいい。
自分に無理のない範囲で食っていける何かの仕事にありつければいい。

↑その割に企画とかMD志望とか舐めプもいいとこ

大学生活後半はほとんど「私はなぜ美大に入ってしまったんだろう」という後悔の嵐だった。才能が無い自分をどこかで引き止める何かが、どうして現れなかったのか。完全な責任転嫁である。

自ら閉ざしデザイナーとしてのキャリアを希望しなかったので、全くデザインの勉強をしなかった。美大ならデザインの授業があるのではという話だが、私がいた学部では教える教授のレベルが高すぎて(?)人生を楽しむとは・生活を楽しむとは・文化とは…みたいな話がメインだった気がする。私がデザインの授業だけ覚えてないor欠席していただけだったかもしれない。
当時の美大生の皮膚感覚を高校球児に例えるなら、バットやミットやボールに触ってきた健康優良児にはなれるけど、野球のルールも知らないのに甲子園を目指せるかという状態で世に送り込まれるような。付け加えれば私はバットやミットやボールを傍観していただけだったし、野球の試合を見たことも無いし、なんならメンタルも病みがちな児童として世に出てしまったのだ。


自分が作ったものを低く評価されたり悪く言われたりしたくないというのは
どこまでも自分主義である。低く評価されたり悪く言われるというのは
お客様や依頼者と向き合っていないからであって、
誰も私を見ていないという諦めとか開き直りが足りなかったのだ。
少し見方を変えれば自分が一番ラクになるのに。


人というのは、その人なりの「我慢の限界」が来ないと変わらない。
変わらないということは「その状況に我慢できる」「その状況でOK」と同義である。

ただの印刷オペレーターだったのにデザインの責任を押し付けられた時に私はブチ切れた。私はデザインしていないしデザイン代ももらっていない、依頼主が望むことをイラレの上で形にしただけだ。正直この依頼でいいものになるワケがないのは誰が見ても明らかなのに私のせいにされるのは我慢できない。自分にとっては惰性でやっていた職業で理不尽にキレられるくらいだったら、ずっと自分が逃げてきたデザインを職業としてやってキレられた方がマシだ。

そこから私は市販の本やブログを見て社会で通用するデザインの考え方を勉強して、未経験でもデザイナーとして雇ってくれた今の会社に入って実践で学んで、一応デザイナーとしての輪郭はできた実感がある。自分なりに納得のいく実績もでき部下もついた。

でも、依頼主から理不尽な言いがかりをつけられることはあり、あまりに過剰だったのと社内のサポートも不足していたため再び精神を病み休職に追い込まれた。社会の中でデザイナーを人間とも見ていない層がいるという事実を目の当たりにして耐えられなかった。依頼主もデザインを勉強していたというのに、何も伝わらず共鳴もしなかった。なんとか復職したが貯金と体力を回復するのに年単位かかったし、結局社内でも経営者がデザイン万歳とか言ってる割には理想主義なだけでデザイナーに対してあまりに敬意を欠いた対応をしているのを見てほとほと嫌気がさした。どこにも味方なんていない。同じデザイナー同士で傷を舐め合うしかない社内だった。


デザイナーだけでやっていくのは、私には無理だ。やってみたからわかった。
やってみなければ、まだぐずぐずしていただろう。この経緯を見ると私は一体美大に入ってよかったのか、デザイナーとして過ごした月日はなんだったのかと最初は思っていたのだが、
次に進めるだけの体力と資金と思考力をデザインの仕事で積み上げることができたのだ。それに、才能が無いからやらないのではなく、やりたかったことはまずやらないと消えない。やりたいことをやろうというのはそういう意味も含むのかもしれない。

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まさか…まさかサポートしてくださるのですか!!? ありがとうございます!!!