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なぜか僕が、鬼海弘雄さんの追悼記事を日本カメラ12月号で書いた。

鬼海さんの追悼記事を書けないかと日本カメラの編集福元からメールがあった。なんで僕と思ったけれど、最後にあったのが日本カメラの編集部だったからかな、などと。まあ、ぼくとはあまりに違いすぎる偉大な写真家なので、知り合ってまもなく意気投合したというより、仲良くなって、あのころはまだ酒をセーブをしているぐらいで、たびたびあった。楽しい酒だった。僕の周りではノンフィクション作家の神田憲行君はかなり仲良くなって仕事もしていたようだ。僕は、会っても、特別会話が弾むわけじゃない。ある部分とてもシャイなところが、実は僕にもあり、そこが鬼海さんとはちょっとバッティングしていて、深い話をしたことはない。なにしろ正直、鬼海さんの言うことをふんふん聞きながら、反論でいっぱいになる。僕は黙って聞いていた。それでも一緒にいると不思議な安心感あがあり居心地がよかった。まあ写真についてはスタイルが違いすぎるので、会話にならなかったとうわけだ。最後にあった編集部、まだ元気そうで、30分ぐらい無駄話をして、でもその1年後写真で見たとき、だれだかわからないぐらい変わっていた驚いた。なんだか会いたくなかった。でも写真展行けばよかったなあ、と後悔している。


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