記憶の力

通行止である。朝の貴重な通勤時間、東の駅へと向かう最短距離の道に立ちはだかる工事中の標識。工事をしている場所よりも、もっと手前で通せんぼしといてくれたら、時間と体力の浪費はほんのちょっとで済んだのではなかろうか?けっこうな距離をUターンしてますよ私は。

南よりの左まわりの経路をたどり、線路をまたぐためにエレベーターに乗り込むと、こちらに小走りに向かってくる一人の女性の姿が見えたので、開くボタンを押したまま待機していると、その女性はなぜか私と目があった瞬間に、その目をそらしながら減速し、態度を一変させたのだ。

それは電車の中で、それは昼食時に、それは午後の休憩時に、その場面が何度もよみがえってしまい、そのことを考えてしまう。彼女は確かにエレベーターを目指していたはずである。その彼女にどういった心境の変化があったのか?そこにはあらゆる可能性がつきまとうのだ。

見た目の怪しい男と、どれほどの短時間であろうとも密室で二人きりでは過ごしたくなかったのかもしれない。自分のせいで待たせるのは申し訳ないと思ったのかもしれない。私の押していたボタンが開くではなく閉じるだと思い込み、同乗をあきらめたのかもしれない。

仮に私がエレベーターから飛び出し、いつもの軽いノリで彼女に「ねぇねぇ、なんで乗ろうとしてたのに途中でやめたん?」とほざいたところで、この上ない怪しさに包まれて怯えさせてしまうだけだろうし、何かしらの言葉を受けとったとしても、それが本音とは限らない。それほどに人の核心に到達することは困難なのだ。

傷つくまいとしても人は傷ついてしまうもの。傷つけまいとしても人を傷つけてしまうもの。良かれと思ってしたことで相手を不快にさせてしまったり、その逆のことだって有り得るだろう。大切なものを見失いそうになった時、私には信じるべきものがある。

それは己の流儀である。敬意を払うに足る先人たちの影響を受け、未熟な感性ながらも形成された己の流儀に反することは暗い夜道を進むための光を奪われるのと同義なのだ。

不可解な理由で嫌われようと、誤解されてもそれでいい。誰にでも起こり得ることで、心を過度に乱すまい。巡る季節の中で、新しい風が吹きぬける。沈みゆく太陽を追いかけるように、最短距離をと指針が示す。迷いを捨てて踏みしめる大地。信じた道こそが、進むべき我が道。そして私は道の上、眼前の光景に静かに唸る。


通行止である

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