必然的パラドックス

空想上の生き物、有識者。

仮に、そのヒューマノイドの理想形のひとつが実在するというのであれば、そこに数多の矛盾が生じてしまう。かつて数学者を志したこともあるこの私が理論的に検証してみよう。

かつての夢が、分数の割り算という概念の出現により、惜しくも儚く散ってしまったことは、いったい何度目の挫折の時であったろう?人生つらいことばかり。それでも己を奮い立たせて、本題を始めるとしよう。

博識、見識、良識といった観点から形成されるピラミッドの頂点に君臨するであろう有識者。しかし世界には民主主義という有識なるピラミッドの頂点から遠くかけ離れた末端の者の主張や要望までも、くみ取ろうとする制度が存在する。

もしも有識者が実在するのであれば、己の意思に大きく反する、そのような制度の成立の阻止、あるいは排除に尽力し、その見識により実現させたはずであろうというパラドックスがまずひとつ。

政治、経済、あらゆる分野の著名なる専門家に有識者なるその虚像を投影する思想も存在するが、ピラミッドの崇高なる頂点、つまりその一点に君臨するはずであるにも関わらず、便宜上配置された、その者たちの意見は、なぜか多くの場面で対立してしまうというパラドックスがまたひとつ。

そして意見のすり合わせの場で行われる討論では、論破したい思いのあまり、感情が暴走し、発言の妨げや暴言、論点のすり替えや極論などが横行し、凡人から見てもその様子は、かなりみっともないというパラドックスがまたまたひとつ。

しかし、それらを踏まえての有識者の不在の提唱が、ピラミッドの末端に位置する、無知かつ無名なる無識者の持論でしかないという、ここにも現れるパラドックスがひとつ。

情報ひとつ増えるだけで、とらえ方ひとつ変えるだけで、ひとつの論理に対する信頼度は逆数のごとく、その分母と分子を反転させる。異論は大いに認めよう。その必然を讃えよう。事の真理を求める人の心理は


そう簡単には割りきれんのだ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?