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<わたしの話>わたしも失踪しまして

兄がやらかした事、失踪した事を偉そうに書いてきましたが、かくいう私も失踪しておりまして。
東京で兄と再開するに至った経緯をこれから書くにあたり、自分がなぜ東京にいるのかも書いておきたいなと思った次第です。

初任給引き出し事件の会社を3年勤めた後、免許を取ってから転職しようと思い、わたしは実家に戻ることにした。
父は相変わらずで、母が頭を冷やして欲しい的な理由で出て行った為、わたしは父と2人で暮らしながら、アルバイトの傍ら教習所に通い始めた。
当時の父と2人で暮らすなど絶対に上手くいくわけがないのに、この時のわたしは自分も少しは大人になったのだから上手くやっていけるかも。
そう思っていた。
頭がお花畑だった。

当然すぐに上手くいかなくなった。
以前の様に数時間に渡ってお説教されないものの、ちょっとした生活態度についてネチネチ言われたり、一番辛かったのが食事についての事だった。
母は料理上手だが、わたしはそうではない。
飯マズではないが、普通である。
しかし、海原雄山っぽいところがある父からすると許せないらしい。
作って出すものは大体調味料を持ってこいと言われ、目の前で味付けし直す。
あるいは全く食べない。
会社に持って行くお弁当も殆ど残してくる。
レタスクラブの様なレシピが載った本を買って来て試行錯誤しても、いつも不評だった。
父は毎晩晩酌をする人で、夜は食事よりも酒のツマミ的な食べ物を用意しなければならない。
こんな物、飲みながら食べれるかと度々罵倒されるので、その内高い食材で誤魔化す様になった。
お刺身や鰻、お肉などを出せば切り抜けられると思い、決まった食費で足りない分を自腹で賄いながら過ごしていた。
ちなみに、朝食も海鮮丼だと機嫌良く食べてくれるので割と頻度高めだったし、お弁当も食べて貰えないよりはと、度々寝過ごした振りをしてコンビニで買ってくれとお昼代を渡していた。

そんな事をしていたら段々と貯金が減っていった。
自分の分として家賃と食費を一度父に渡した上で、父の分を足した食費を預かっていたが、高い食材を買い続けているうちに、アルバイトの給与はまったく手元に残らない。
それどころか貯金からも補填する様な状況だった。
父と暮らして1年程経ったある日、友達の家に遊びに行って愚痴を聞いて貰っていると、暫くうちに居てもいいから家を出たらと言われた。
そうだなあ、もういいや。
1年は我慢したし頑張ったよね。
そう思って、次の日には少しの荷物を持って実家を出てしまった。

父だってわたしの料理に我慢していたわけだし、料理上手になるように頑張れば良かったかもしれない。
でも家を出る選択肢を取ってしまった。
兄のいつまでも逃げる様な選択をどうかと思いながら、わたしもこの時逃げてしまった。

それからすぐに就職先を見つけて1人暮らしを始めたが、セクハラの酷い会社に入ってしまい、1年と半年経った頃にはまぢ無理と思い辞めてしまった。
次の転職先をどうするか考えた時、ふと東京で働いてみようと思い立った。
今までは地方都市で比較的のんびり働いていたが、社会人として厳しい環境でバリバリ働けるか試してみたいと思った。
早速手筈を整え、1ヶ月後に東京に引越した。
幸いな事に引越して早々に転職先が見つかり、これがまた良い会社だった。
田舎から出てきた感も手伝ってか、会社の人達にもとても良くしてもらった。
この会社はその後7年勤める事になる。

実家を出た後は携帯を契約し直したので、両親から電話があったかどうか分からない。
わたしからも一切連絡しなかった。
それでも、時折黙って出てきた罪悪感に苛まれるし、誰かが家族の話をしていれば、自分が家族の話を出来ないことが悲しいと思い、聞かれても適当に答えている自分が哀れだなあと思っていた。
一度連絡を断つと、再開するタイミングを探すのは難しい。
自業自得だけれど。
家族と連絡を取るタイミングを見計らいながら、結局連絡できずに1人で生きていくのかな。
兄もどこかでそう思いながら暮らしているのかも。
そんな風に考えていた頃、突然母から手紙が届いた。

実家を出て7年、東京の会社に入って6年経った頃だった。
後で聞いた話だが、父の戸籍に入っていれば附則で家族の住所が分かるらしい。
母はそれで手紙を出してくれたそうだ。
数年後、わたしも同じ方法で兄の住所を調べることになる。

母の手紙にはずっと心配だったとか、父も本当に反省していて様子が変わったとか色々書いてあった。
読み返すことはないけれど、この手紙は今でも保管している。
自分では連絡を取るタイミングがなかったけれど、母がチャンスをくれたと思った。
すぐに実家に電話できれば良かったが、家を出た時に番号を消してしまって分からない。
今すぐ話したい気持ちを我慢して、これまでのことと自分の携帯番号を便せんにしたため返信した。
なお、母は同じタイミングで兄にも手紙を出しているのだが、兄からは返事がなかったそうだ。
その後母と電話で話し、暫くしてから一度実家に顔を出した。
父とは電話で話をしていない状況でいきなり顔を合わせたので、余計に気まずさを感じた。
軽いジャブでもと、まず何も言わず家出たことを土下座して謝ると、父はそれを見て笑い出した。
とりあえず軽く怒鳴られるかと予想していたので、わたしは面食らってしまった。
手紙の通り父は本当に変わっていた。

手紙を読んだ後、とかなんとか言っちゃって本当は大して変わってないんじゃないのと思っていたのだが、マジだった。
歳のせいもあるだろうし、仕事も上手く行っていることも手伝ってかもしれないが、昔の父をまるで想像できないくらいだった。
母曰わく、離婚すると脅したら変わったとかなんとか。
兄もわたしも行方知れずになり、両親は何度も話合ったそうだ。
両親も色々と考えてくれたと聞いて、申し訳なさと嬉しいさで複雑だった。
更に、父と母の立場は完全に逆転しており、これにはかなり驚いた。
今では父が母にお小言を言われている。
お小言といっても、ジャパネットで余計な物を買うなとか、何でも人にあげないでとか、笑い話の様に言う程度だ。
父も機嫌を悪くするわけでもなく、はいはいと笑って聞き流している。

昔の様に家を覆うピリピリした空気はどこにもないし、二度とあんな雰囲気にならないだろうと思う。
7年振りに実家に帰ってから今に至るまで、わたしは年に4回は帰省している。
両親の誕生日、父の日や母の日も電話したりプレゼントも欠かさない。
いなくなった数年の穴埋め、兄の分までという気持ちで両親を大事にしようと努力しているつもりだ。

今や両親は穏やかな気持ちで生活している。
もし兄が戻ってくる場合は、傲慢な考えかもしれないが、まともになっていることが絶対条件だ。
わたしはそれだけは譲れない。
兄と再会したことも今だに両親には話していない。
だから兄には頑張って立ち直って欲しい。
両親が死ぬまでに、ちゃんとやってるよと堂々と会って欲しいと思っている。

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