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江ノ島・鎌倉小旅行 02 鎌倉

鎌倉、どんな印象をお持ちですか。お寺、大仏、海、鶴岡八幡宮、おしゃれな街並み。そんな感想を抱かれる方が多いと思います。鎌倉は様々な顔を併せ持っていて、近代的な街並みとは対象的に、とても古い歴史をも刻んできた街でもあります。

そんな鎌倉がかつて、日本の中心地だった時代がありました、ご存知、1192年に源頼朝が開府した鎌倉幕府がここ鎌倉に開かれ、御家人たちがここに在住していました。なぜ鎌倉が選ばれたのか、様々な理由が考えられますが、その理由の一つに、鎌倉特有の地形がありました。

今でも鎌倉の街を歩いてみると、すぐに気づくことがあります。それは、山々に三方を囲まれ、正面は海となっていて、街の中に入るにはかなり苦労します。鎌倉は昔から天然の要塞だったのです。

稲村ヶ崎。鎌倉の街に入る手前にある断崖絶壁。急な崖が海に突き出していて、ここから鎌倉に入るのは一見しても不可能に見えます。ここを、新田義貞は龍神に祈ることで潮が引き、おかげで鎌倉に攻め入ることができたという伝説が残っています。

それほど、数少ない街へと入る道はどれも狭く、トンネルを通過しないといけません。そして、そんなトンネルが昔はあるわけがなく、急峻な山道を登り、人一人がやっと通れるような岩の隙間をくぐり抜けてやっと辿り着くという有様でした。

今回の旅の主目的は、そんな狭くて急な古き道が今どうなっているのか、それを知りたかったというのがあります。

名越切通へと至る道中、大きなクスノキがその身を横たえていました。その当時からあってもおかしくない風格を持っていますね。

名越切通。噂に違わず、とても狭い道を両側かわ巨大な岩が迫っています。昔はこの狭い道を人や馬が往来していたのでしょうか。自動車は、当然通れません。現在はこちらのすぐ近くを、JR横須賀線がトンネルで一気にショートカットしています。

鎌倉へと至る狭小で急峻な峠道、切通(きりどおし)は、ここだけではありませんでした。金沢区方面、北鎌倉方面、藤沢方面など、各方面へ抜ける切通があり、全部で7つあったので鎌倉七切通、または鎌倉七口と呼ばれました。

次の切通へと続く道。水が流れていて、道なのか川なのか判然としない状態になっていました。ここを通る人はひとりも見かけませんでした。かつての幹線道路とは思えない静寂に浸ることができます。

朝夷奈切通。岩に石仏が彫られています。昔の人はこの巨大な岩をどのように掘削したのでしょうか。当時の苦労が偲ばれます。

切通のひとつ、巨福呂坂のほとりに建てられた庚申塔や道祖神の石碑。巨福呂坂は今は通り抜けできません。先に進むと現道である県道21号線に塞がれ、旧道は消失しているようです。このように、今では姿を消してしまった切通しもあります。

切通のひとつ、亀ヶ谷坂。こちらはほぼ当時の佇まいを残したまま、現在でも生活道路として使われている道です。非常に急な坂道となっていて、息があがります。名前の由来は、亀がこの坂を登ろうとして、あまりの急な勾配にひっくり返ったから、という言い伝えが残っていますが、真実かは定かではありません。

道中、咲きほこる花ニラ。

切通のひとつ、化粧坂。とても急な坂道で、雨水で泥濘んでいるためさらに歩きにくくなっていました。しっかりした登山靴でないと厳しい道。ここを登ると源頼朝像が鎮座する源氏山公園があります。

源氏山公園の源頼朝像。頼朝は鎌倉幕府の興隆と滅亡を、どんな思いで見ていたのでしょうか。

今回の旅の最後、大仏切通。当時の雰囲気が良く保存されていると思いました。現道はやはりすぐ近くを、山道になることなくトンネルで一気に抜けています。トンネルなら徒歩で5分とかからない道を、昔はゆうに20分ほどかけて山道を登っていたと思うと、当時の苦労がわかります。

残る一つの切通、極楽寺切通は、現在は自動車が通れる現代的な道路となっており、旧道の痕跡は記念の石碑があるのみとなっています。また、江ノ電もここを通ります。

有名な神社仏閣を一切訪問しない今回の旅、いかがでしたでしょうか。鎌倉が山々に囲まれ、そこに至る道がどんなに険しかったか、少しでも伝わったでしょうか。

鎌倉の海を眺めながら帰途につきました。


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