アパレル業界で私が知ってること(小売篇)その3:迷走開始―バブル後のさらに数年後

さて、実のところ、バブルが弾けてから数年は、アパレル会社的には、実のところ「売上取れねーな、やべーな」程度で、まあ私がいた会社なんかは特に黒字は黒字(しかもそれなりに)でしたから、まあいいか的なところがあったんだと思います。でも、その間に実はかなり大きな(今になって過去を振り返れば本当に大きな)出来事がありました。

最初に来たのは大店法緩和です。まあある意味ではこれが最大のターニングポイントだったのかも知れませんけど。

他の企業の細かい事までは知りませんが、少なくとも私がいた会社では「百貨店で売上を立てて専門店で利益を出す」っていう構造でした。当時の専門店って、商店街だったりの、言ってみれば家賃がほとんどかからないお店での商売だったんですけど、こういうお店が近所のショッピングセンターとかに売り上げを食われまくって進退窮まらなくなってきてたりしてきたんです。

今から考えれば、多分このあたりで「需要過多→供給過多」っていうシフトチェンジがあったんだと思ってます(調べかけて挫けましたから実際はどうかわかりませんから個人の感想です)。案外遅い気もしなくもないんですけど、年度で言えば1995年位からですかね?商品が余るようになってきたんです。逆に言えばそれまではなんだかんだ言いながら会社的には在庫処分できてたんですよ、割と。

私事で言ってしまえば、その頃地方専門店の担当セールスやってましたけど、ぶっちゃけ販売よりも債権回収の方がメインな仕事してました。基本的な会計とか覚えたのもこの頃です。B/SとP/Lくらいは読めないと販売していいかどうかすらわからないっていうといいすぎですが、それに近かった事は事実です。ついでに言えば「ウチの商品を売った売上分はウチが優先的に支払いしてもらえる」的なお約束事もありましたから、どうやって小売店側に売上とか利益とか出させるのか(っていってもプロパー消化率を高くする一択なんですけど。掛率とかいじるとウチの利益率が下がります。債権回収がメインだと割り切った売上下げる覚悟でいましたから、利益まで下げるのは論外ですし)ってのに四苦八苦しまして、最終的には「店の特徴に合わない商品は売らない!」っていう結論に達したので「売りたがらないセールス」とか言われながらも、まあ得意先にはよくしてもらいましたし、信頼もされてました。丁度阪神大震災で展示会に来れないとかっていう場合もあって、得意先によっては発注丸投げとかまでしやがりましたから。シーズン終わるまでビクビクでした。返品受ける覚悟までして上司に相談という名の下準備までしてましたけど、返品どころか追加が山ほどきました。店の特徴に合わせるのって大事だなってしみじみ思ったものです。

とは言え、専門店はどんどん減少していきます。仮に残っててもショッピングセンター内で家賃がかかる商売に変わってたりしましたから、その1で書いたように粗利率は低下しまくりです。売上も減るわ利益率も下がるわで専門店担当は大ダメージ食らう状態になってきてました。稼ぎ頭の部門が利益を出せなくなってくるわけですから、当然会社全体の利益にも影響してきます。そうなると今度は売上だけは取れている対百貨店の取引をなんとかして黒字に持っていこうと考えざるを得ません(ちなみに当時私がいた会社は量販店は別会社が担当してましたから会社的には量販店販路は広げてはいけないって言う暗黙の了解がありました)。

マクロ的な目線で見た時にこの頃に何があったかって言うと、多分なのですが、アパレル小売の売上÷アパレル売場の総合計面積(坪)が200千/月を割ったんだと思います。事実この頃から坪200千円との闘いがはじまった感がありますから。個人的にですけど(他の全体もそうなんですけど、特にこの部分は異論反論大歓迎です。っていうかデータとかあれば欲しいですし)。

さて、本部っていいますか、西日本全体の商品コントロールをするようになった時に一番心がけたのは「返品が多い店にはそもそも送らん」です。と言っても当時は店舗別の予算で店舗でバラバラに発注したものを集計してそれを目標に作るってのが基本の考え方でしたから、まあ限界はあります。でも容赦なく調整してましたから、営業部とは日々言い争いです。かちょうクラスが平気で出てきます。多分私はこの頃が一番尖りまくってました。上役だろうが先輩だろうが誰彼構わず言いたい事言ってましたし。丸くなったもんだ。

まあそんなこんなでついに赤字化しちゃって、どうも赤字構造になってるんじゃないか?って薄々感じていた頃、残業してたら当時の社長から「本部で店頭の商品を全部コントロールできたらどないなるかな?」っていう相談を受けて、レポートを作成しました。これが当時私がいたアパレル企業でSPA的な概念が組み込まれていくベースのレポートとなりことになりました。その後は会社が身売りしたりなんかしちゃったわけですけど、それによってさらにSPA的な運用の方向への舵取りが始まりました。それに伴い大規模なリストラも行われましたが、ぶっちゃけ新体制への移行の言い出しっぺなのでさすがに退職は選べませんでした。なんぼなんでも無理です。まあ勝算があるからレポート出したわけですしね。最低でも建前としてはそうです。なのでやめられませんよ、流石に。

ってことで、SPA型(当時はSPAなんて言葉はしりませんでしたが)とSCM(これも当時は言葉なんて知りません。)の2つを軸に(SPA型がメインでしたけど、どうしてもSCM的な要素は出てきます)BPRを推進する羽目になってしまいました。ちなみに社長と話をした時点で平社員です。ちなみに残業時間は空調が切れるという愉快な設定されたビル(申請しておけば空調入れてくれる)でしたから、部屋が暑くて長パンツをロールアップした半パン&Tシャツで社長とお話です。プライベートな相談ではありましたが、後から流石にこれでいいのか?とかちょっとだけ思ってはみました。まあ当時の社長は人間的には温厚で良い人でしたから、服装のことなんか欠片も気にしてなかったみたいでしたから問題はありませんでした。まあアパレルですから元々のドレスコード自体がいい加減です。

さて、消化店舗がメインになってきて、POSデータが取得できているのであれば、データ重視型の企画やらマーチャンダイジングは可能です。強いて言えば私のSPA的な理論は独立研究で、既存のSPAとは微妙に異なるようです。そもそもSPA型ではありますが、ターゲットが消化仕入ですから、売上の立ち方がちがいますからね。自力で研究したかいがあって、まあ応用とかは思いのままだったっていうのは、今から思えば独自研究した強みだったんだろうと思います。

まあ、次はPOSデータ処理的な関連のお話をするのが流れでしょうから、そのあたりのお話を進めてみたいと思ったりします。

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