多重解決・否定・人間性 ―米澤穂信『愚者のエンドロール』論―

「過去に書いた評論をネットに載せておこう」シリーズ第二弾。2016年に同人誌『PHOENIX 第137号』に掲載した「多重解決というゲームの中で -ゲーム的多重解決ミステリ試論-」を公開します。

『PHOENIX』はワセダミステリ・クラブの機関誌で、今回の評論は僕が学部3年の時に書いたものです。ただこの論は学部2年の時に自分が主催した読書会で発表したものをまとめたもので、約5年前くらいに生まれた着想で書かれています。
 そのため、今読み直すとアップデートしなきゃいけない部分(「否定する推理」の部分なんかは井上真偽『その可能性はすでに考えた』あたりも参照した方がいいと思うけど、たしか読書会直後くらいに発売された気がする)が多々見られますが、手は加えずに載せておきます。
 というのも、実はこれが自分にとって初めて書いた評論で、原点を忘れないためにも修正は最低限に留めました。文章の稚拙さやバークリーの作家性の理解の仕方など、文章も内容も直さなきゃいけない部分もありますが、あの頃だから勢いで書けた部分もある気がします。

『愚者のエンドロール』論ということで多重解決を扱っていますが、これを執筆したときに生まれた関心は前回載せた「ゲーム的多重解決ミステリ」論につながりました。できれば合わせて読んでいただけると幸いです。


多重解決・否定・人間性 ―米澤穂信『愚者のエンドロール』論―

※米澤穂信『愚者のエンドロール』、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』、「偶然の審判 」のネタバレが記されていますのでご注意ください。


 米澤穂信の作品を語るうえで「オマージュ」は一つの重要なキーワードだ。そのことは短編集『遠回りする雛』や『儚い羊たちの祝宴』でハリイ・ケメルマンやジャック・フットレル、泡坂妻夫、スタンリイ・エリンといった古今東西の名作のオマージュ作品が収録されており、長編『インシテミル』はタイトルからして「新本格に淫する」という意味合いが込められていることなどから分かるだろう。米澤は自身のスタンスの一つとして「古い器に新しい酒を注ぐ(※1)」ことを標榜しているが、このスタンスはデビュー作『氷菓』がライト文芸として出版されながらも、現在では彼が本格ミステリ界のメインストリームの一端を担うまでになるのに大きく影響しただろう。
 『愚者のエンドロール』(以下『愚者』)は米澤の初の長編にして、そのスタンスを初めて堂々と表明した作品だ。この作品でオマージュは「多重解決」(一つの事件に対して複数の推理が提示される作品群)というジャンルを確立した、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(以下『毒チョコ』)に捧げられている。であるからして、もちろん『愚者』も「未完の映画の結末を複数人がそれぞれ推理する」という多重解決ものの構造をしている。
 しかしここで疑問が生じる。たしかに『毒チョコ』は多重解決作品の代名詞だが、多重解決作品は何も『毒チョコ』に限ったものではなく、多重解決だからというだけで『毒チョコ』のオマージュと言えるのだろうか。ここから我孫子武丸は『愚者』は『毒チョコ』とさほど似ておらず、むしろ自作で「未完の映画の結末を複数人がそれぞれ推理する」『探偵映画』に似ている、しかも「バリエーションとしては引き算」のような作品だとしてブログで低評価を下した(※2)。我孫子の言うことにも一理ある。確かに一読しただけでは『愚者』と『毒チョコ』の共通点は「多重解決」一点のみに見え、「映像」という共通項がある『探偵映画』に近いと感じるのももっともだ。
 しかし我孫子は「似せない」こともオマージュになりうるという視点が欠如しているように思える。オマージュ作品の評価は通常似ているか否かではなく「オマージュ元を超えられているか」が軸になってくる。そのために元作品の特徴を発展改良させるに留まらず、欠陥を解消することも重要になる。その結果、元作品と似なくても土台としてそのエッセンスが存在すればオマージュ作品と呼べるうえに、改良が功を奏せば評価も高くなる。
 本論ではこのような観点から米澤は何を似せ、何を似せず、『毒チョコ』を改良して『愚者』を仕上げたのかを検証したいと思う。結論から言えば『愚者』は『毒チョコ』だけでなく、バークリーの「作家性」にも敬意を払った作品だと主張したい。
 
 『愚者』を論じる前にまずは『毒チョコ』がいかなる作品であるかの検討を行い、その特徴を確認したいと思う。そして真っ先に検討しなければならないのはやはり「多重解決」の持つ異形性だろう(※3)。
 『毒チョコ』の梗概は以下の通りである。ある毒殺事件に対して主人公のロジャー・シェリンガムら犯罪研究会の面々がそれぞれ順番に推理を繰り広げるが、最後に推理を披露したチタウィック以外はどの推理も他のメンバーが持つ新たな証拠によって否定されてしまう。それは会の中で最もロジカルで驚きに満ちた推理を行ったシェリンガムも同様である。読者は完璧と思われた推理が瓦解する様に驚愕するに違いない。
 このような事態が起きてしまうのは、各推理を終えた後に新証拠が提出されるからである。探偵は何故事件を解き明かす証拠を全て把握できるのだろうか、見落とした証拠によって推理が覆されることは起こりえないのだろうか。バークリーはこのような当然の、しかし超人的な探偵の前では抱きえなかった疑問を顕在化させる。探偵を複数用意することで探偵が行う推理の恣意性を暴き出したのだ。
 探偵はすべての証拠を把握できず恣意的に証拠を選んで推理をしている。それが正解となるのは作者との蜜月関係、つまり探偵の推理が終わるところで物語が閉じられるからである。そのことは『毒チョコ』が書かれる以前に発表された短編「偶然の審判」では、『毒チョコ』同じ事件を扱っているのにシェリンガムの推理(これも『毒チョコ』と同じもの)が正解とされていることが格好の例だ。作者がその推理を正解にしたければそこで作品を終わりにすればいいし、不正解にしたければその推理を否定する証拠を推理後に提出すればよい。
 読者は最終解決を真相だと信じ切っている。なぜなら小説はそこで終了するからだ。しかし物語の中にいる探偵にとって世界は小説が終了したあとも続くはずである。それなのになぜ最終解決を否定する証拠が出てこないと言い切れるだろうか。
 このような現実を突きつけられた読者は二度と探偵の「絶対的」な推理というものを信用できなくなるだろう。「毒チョコ」の最終解決であっても新たに証拠が出てきたら覆されてしまう、そう考えると真相は違うのではないかという疑惑が生じるのも当然だろう(しかもバークリーはこのような感情を掻き立てるためか、最終解決で指摘された犯人に自白をさせていない)。
 バークリーは「多重解決」という手法を用いて以下の点を明らかにした。一つ目は探偵を相対化し、真相を導くはずの推理に恣意性が含まれていること。二つ目はミステリの楽しみは結末の意外性だけでなく推理の過程にも存在するということだ。二つ目についてはもう少し説明が必要だろう。多くの探偵小説は探偵が暴いた真相の意外性を評価する。しかし『毒チョコ』での真相(最後の推理が正しかったとして)は多少意外性もあるが、他の誤った推理が提示する結論と比べればそこまで意外なものでもない。多くの読者はむしろシェリンガムの誤った推理の方に魅力を感じるのではないだろうか。そこから浮かび上がるのはその推理が正しいかどうかではなく推理の「過程」がおもしろいかどうかという新たな基軸である。
 バークリーは絶対だと考えられてきた「解決=真相」を相対化することで上記の二点、「推理の恣意性」「過程の重視」を導き出し、『毒チョコ』を批評的な作品に仕上げたのである。
 しかし『毒チョコ』は批評的たらんとしたためにミステリとしての面白さを削いでしまったようにも思えなくはない。特に「フェアプレイ」という観点からすると『毒チョコ』への評価は厳しいものとならざるを得ない。『毒チョコ』では六人の登場人物が推理を披露するが、視点人物のシェリンガム以外は推理で用いられる証拠を推理開始  前に読者に公開することなく突然提出してくる。そのため他の五人の推理を読者が言い当てることは不可能である。また推理を否定する新証拠に関しても事前にテクストに描かれることはなく、その推理が正解か否かを読者は判断できない。
 もちろん『毒チョコ』がこのような構造をしているのは先に指摘した「推理の恣意性」をシニカルに描くためであって「フェアか否か」でこの作品を評価するのは的外れである。しかし本格ミステリの花とも言えるパズル的な性質を、意図的とは言え削ぎ落してしまうことは、ミステリの醍醐味の一部を諦めているのと同義とも言えなくはない。
(ところで「フェアプレイ」と聞いてエラリー・クイーンや「読者への挑戦状」を連想した方も多いだろう。そして「読者への挑戦状」をほぼ毎回挟む「国名シリーズ」の第一作『ローマ帽子の謎』と『毒チョコ』は偶然にも同年(一九二九年)に発表されている。同年発表されたのは単なる偶然であろうが、同じ時期にバークリーとクイーンが「推理の恣意性」という問題にたどり着いていたことは確かだろう。それを大胆に表面化させ、あざ笑うように書かれたのが『毒チョコ』であり、対してクイーンは「読者への挑戦状」を挟むことで読者にテクストに出てきた証拠以外は用いられないことを宣言して「推理の恣意性」を極力排してフェアプレイを形式的にでも成り立たせようとしたのだろう。)

 『毒チョコ』の特徴と弱点の両面が明らかになったところで『愚者』の方に目を移そう。一見すると映画を作ったクラスの三人の先輩の推理を主人公の折木奉太郎が毎回否定していく流れは『毒チョコ』とほとんど同じように思える。しかしここには米澤によって改良が試みられているのである。
 奉太郎は推理を否定する際に『毒チョコ』のように今までテクストに出てこなかった証拠を用いることはない。事前にテクストに書かれているもののみを証拠として推理の否定の起点としている。読者に対しても事前に証拠が公開されていることで奉太郎の「推理を否定する推理」に対するフェアプレイ性を保たせることに成功している。
 ここで興味深いのはフェアプレイ性を保たせているのが三人の先輩の「推理」ではなく奉太郎の「推理を否定する推理」に対してであることだ。先輩の推理に関しては全く読者が推理する余地がない。例えば二番目に推理する小道具班の羽場は映画製作用に用意していたが使わなかった(つまり作中の映画内には出てこない)ザイルを新証拠として提出してこれを起点に推理を始める。証拠のいわば「後出し」から主人公以外の人物が推理を行うのは『毒チョコ』と同じ形式だ。
 ここで他の二人の先輩の推理にも注目してみると面白いことがわかる。一人目の中条の推理に関してはトリックらしいトリックもなく「犯人は誰でもいい」とされており、三人目の沢木口の推理では「怨霊が存在する」という(推理小説としての)ミステリの前提を覆すものだった。羽場のものも併せて読者は「ミステリとして出来が悪い」推理しかないと思うだろう。ここから米澤はここでは「推理」に重点を置いてないことがわかる。その代わりとして「否定」の方にミステリの面白さを詰め込んだのである。
 どういうことか。複数人が推理を行う多重解決ものでフェアプレイ性を保証するのは中々難しい。すべての人物が何を証拠として捉えているかを読者に提示するのは困難だからだ。さらにバークリーが指摘した「推理の恣意性」の問題もある。そこで米澤は「推理を否定する推理」を行う人物を視点人物の奉太郎に固定することで、否定に用いる証拠を事前に奉太郎の視点を通して読者に提示しながら複数回の推理の否定を行わせることに成功した。
米澤は「推理」から「推理を否定する推理」に焦点をすり替えることでフェアプレイを保ちながら多重「解決の否定」を行っている。
このような視点の変化の根本にはバークリーが打ち出した「推理の過程の重視」があるだろう。バークリーは推理が真相と合致するかなどと関係なく推理そのものがロジカルで魅力的なものであれば推理が外れようとも読者を楽しめることを示した。それはある意味で「推理は何かを明らかにする必要がない」ことも意味する。「推理を否定する推理」も真相を言い当てるものではない。それでも読者を引き付けるのは通常の推理の場合と同じくそれがロジカルでフェアプレイに則ったものだからなのだ。
 「推理を否定する推理」に重点に置くという策略は前述した三人の推理の粗雑さに新たな意味を付与する。本来なら推理の粗雑さはマイナス要素であるはずだが、それは推理が花形とされている場合であり、「推理を否定する推理」に焦点が置かれる場合、推理は「いかにしてこの推理を否定するか」という「問題」の役割を担う。そして問題は解きにくければ解きにくいほど面白い。
 奉太郎は中条案に対してこう評している。

中条案は実に簡単で、あのビデオ映画をミステリーと見るのが馬鹿馬鹿しくなるようなものだ。その単純さ故に、物理的に崩すのは難しかろうさ(※4)

 また沢木口の推理に対しての古典部四人のやりとりも興味深い。

 二人があまり真っ向から沢木口案を却下しようとするものだから、悪戯心を起こしたのだろう。里志が突っつく。
「じゃあ否定してみてよ」
 そして優しく笑って付け加えた。
「……論理的にね」
まったく、時々里志は意地が悪い。伊原は口をつぐんでしまった。それはそうだろう、沢木口案はいわば解決の放棄だ。密室、アリバイ、凶器の問題……。どれも「犯人は悪霊だったので超自然の力で何とかしました」で以上証明終わり、だ。美しすぎる(※5)。

 粗雑な推理は「回答」としては出来が悪かったが、その粗雑さゆえに否定することはとても難しく、「問題」としては中々の難易度を誇ることになる。三人の推理が雑なのは、一つには黒幕である入須が「シナリオコンテスト」を行うことを決意させるための原因としての意味合いもあるが、構造上「推理を否定する推理」を引き立てる役割も担っているからなのである。

 さらに米澤は「推理を否定する推理」を用いることで『愚者』をさらに複雑な構造にすることに成功している。それについて考えていくうえで推理に用いられる「証拠」について考察する必要がある。『愚者』内に登場する証拠は二種類に分けられる。それは「作中作の映像の中に出てくる証拠」と「映像外のメタ的な証拠」の二つであり、ここでは便宜上前者を「作中証拠」、後者を「メタ証拠」と呼ぶことにする。
 この二種類の証拠はどのようなものか、羽場の推理を例に検討していこう。羽場は脚本家の本郷がザイルを用意させたことからザイルを使ったトリックだと推理する。このときザイルは映像の中に出てこない「メタ証拠」に分類される。それに対して奉太郎は映像の中から分かる「窓の立て付けが悪いこと」という「作中証拠」を理由に羽場の推理を否定する。
 この時点ではこの二つに特段違いはないように思える。しかしそれは奉太郎自身が推理を行い、それを他の古典部三人に否定されるときに両者の性質の違いが表れてくることになる。
 三人の推理が不発に終わると古典部に推理の審査を頼んでいた入須は奉太郎に今度は「探偵役」として映画の結末を推理してほしいと依頼し、奉太郎はそれを承諾し推理する。奉太郎の推理は映像に映らない映画のカメラマンが実は登場人物=犯人であるというものだった。入須はその推理に満足し、それを本郷が考えた映画の結末だと結論付ける。
 奉太郎が指摘したトリックは「叙述トリック」の一つだ。本来叙述トリックは小説や映像の「語り」で読者をだますためのトリックであって作中の探偵が暴くトリックではない。しかし今回の場合叙述トリックが用いられているのは作中作である映画の中であるため読者と同じく作品の「外部」にいる奉太郎にも推理が可能となる。
 しかし作中作を用いて叙述トリックを作品の人物が解明するしかけ自体は先行作も多くあり、それ自体には特段米澤の独自性は見られない。しかしこの奉太郎の推理すら否定されることはとても興味深い。
 繰り返しになるが叙述トリックは読者をだますためのトリックであって作中の人物には解くことも出来ない。それは否定も同様である。では作中作の場合はどうか。確かに他のトリック同様、作中に矛盾する証拠を見出せば否定はできる。しかし奉太郎の推理は作中の証拠と矛盾する箇所はなく、そのため映画はこれを受け入れて完成することができた。
 実際、奉太郎の推理を否定する三人も「映画としてはよく出来ている」として奉太郎の推理は作中証拠と矛盾することはないと認めている。しかし彼らはそれぞれメタ証拠を用いて奉太郎の推理を否定する。伊原はザイルが使われていないこと、里志は本郷がホームズでミステリを勉強したこと、千反田は(証拠とは言いにくいが)本郷が脚本を放棄した理由が説明できないといういずれも映像外の事情を理由としているのだ。
 これによって明らかになるのは「奉太郎の推理は映画の結末としては妥当だが、本郷の考えた結末ではない」ということだ。これはとても奇妙な状況である。「映画の結末を導く」こと自体は作中証拠と無矛盾であれば問題ないが、「本郷の真意を明らかにする」にはメタ証拠とも矛盾がない推理を組み立てねばならぬことが発覚する。
 「映画の結末を導くこと」と「本郷の真意を明らかにすること」が別問題だったことを「作中証拠とだけ矛盾のない結末=本郷の真意」と信じ切っていた奉太郎は千反田の「なぜ入須さんは、江波さんなどの本郷さんと親しい人に、用意したトリックはどんなものか訊くように頼まなかったのか(※6)」という疑問によって気づかされる。
 この「なぜ江波に頼まなかったか」は角川文庫版では「Why didn’t she ask EBA」として副題となっている。この元ネタはアガサ・クリスティの『なぜエヴァンズに頼まなかったか』だ。なぜこの文言を副題としたのか、ひとつは「あとがき」の「クリスティは無関係です(※7)」という米澤の言葉から、叙述トリックを世に広めたクリスティは関係ない=奉太郎の「本郷の考えた結末は叙述トリックが使われている」という推理が間違っていることを示唆する言葉遊びのようなものと考えられる。しかしそれ以外にもこの言葉は奉太郎に本郷の真意を探らせるための契機となり本作の推理を別ステージに導く重大な役割を担っているからとも考えられる。
 別ステージとはどういうことか。奉太郎は千反田に本郷の真意は別にあることを指摘された直後このように振り返る。 

 俺はあの映画の脚本を、ただの文章問題と見ていたのではなかったか。舞台設定、登場人物、殺人事件、トリック、探偵、「さて犯人はこの中にいます」……。
 そこに本郷という顔も知らない人間の心境が反映されているということに、俺は気づいてさえいなかったのではないか。
 まったく大した「探偵役」だ!(※8)

 ここで映画を単なる「文章問題とみていた」ということは、ミステリを「パズル」として捉えていたことと重なる。それはある意味とてもラディカルな本格ミステリの捉え方だ。そこに犯人の動機、パーソナリティなどが介在する隙はない。しかしこの非人間的な「パズル小説」は様々な形で批判されてきた。本当にミステリはこのような心理的な要素を排したものでいいのか。
 実はこのような批判を探偵小説黄金期(それはまさしくミステリが最もパズルと近い存在にあった時期かもしれない)にしていた人物がいる。それがアントニイ・バークリーなのである。
バークリーは『第二の銃声』の冒頭の「A・D・ピーターズへの献辞」でこのように書いている。

全面的にプロットに依拠し、人物の魅力もなく、文体も、はてはユーモアさえない、懐かしき犯罪パズルは、余命幾許もないというほどではないにせよすでに監査役の手に渡されているのだ。探偵小説は(中略)心理学的であることによって読者を惹きつける小説へと発展しつつある。謎解きの要素は間違いなく残るだろう。しかしその謎は、時間や場所や動機、機会の謎ではなく、人間性の謎である。(中略)探偵小説はもう、最終章での探偵のいささか見え透いた謎解きという紋切り型の終わり方をしないだろう。事件の解決は興味の変化への序奏に過ぎない。(※9)

 「犯罪パズル」から「人間性の謎」へ。バークリーはその実践として別名義フランシス・アイルズの名で『殺意』などの心理サスペンスの傑作を生みだしていく。
 トリックのような謎から人間性の謎への「興味の変化」は『愚者』における「映画の結末」から「本郷の真意」への奉太郎の「興味の変化」と対応する。米澤はバークリーへのオマージュとして、このようなミステリのパラダイム転換を一作の中で行って見せたのである。
 この「人間性の謎」は犯人への「興味」から生じるものである。『愚者』の場合は「犯人=作者=本郷」という少し変則的なケースだが奉太郎が千反田によって「本郷の真意(=人間性)」に興味を持つことで今回の出来事の全体像が明らかになる。
 本郷の脚本では死人は出る予定ではなかったが、映像を制作する側がアドリブを重ね殺人事件になってしまった。収拾をつけるため入須は奉太郎も含めて「シナリオコンテスト」を行ったのであった。
 米澤は「事件の真相」という本格ミステリ的な謎と人間性の謎の統合を成功させているのである。これも「人間性の謎」を標榜して以降も『ジャンピング・ジェニィ』のような本格ミステリでありながら人間性をないがしろにしない作品を書き続けたバークリーへのオマージュとも言えるかもしれない。
 「人間性の謎」という米澤がオマージュとして作品に込めたテーマは「本郷の真意」そのものにも表れている。本郷の脚本では被害者の海藤は死んでなく、犯人の鴻巣が自分を切りつけた後で鴻巣を庇うため自ら部屋の鍵をかけたことによって密室が発生したのである。この真相について奉太郎(ほうたる)と千反田(L)はチャットでこう話している。

L:海藤さんは鴻巣さんに刺されたあとで、
L:鴻巣さんと話したんです
L:どうして自分を刺したか
L:ひょっとしたら、どうしてひと思いにさつがいしなかったのかも
  (中略)
ほうたる:なぜ、鴻巣が海藤を刺したのか。海藤は鴻巣を許したのか
ほうたる:そこまではわからん。本郷が口を割るまでは、謎のままだろう
L:それは、しかたないですね
L:とても気になりますが
L:クラスメートを刺すわけ、自分を刺したクラスメートを逃がすわけ
L:それを本郷さんはどう描こうとしたのか(※10)

 本郷が主題として据えようとしていたのも密室や犯人当てそのものよりも人間性の謎なのであった。

 話は少し戻ってしまうが奉太郎が「人間性の謎」へ「興味の変化」を起こすきっかけとなった千反田の役割について考えていきたい。
 繰り返すが千反田は奉太郎に「人間性の謎」を発見させるという役割を担っているわけだが、このような役割は前作『氷菓』でも行っているのである。しかし前作で発見されるのは「人間性の謎」ではなく「日常の謎」である。
 評論家の海老原豊は日常の謎の要素を次のようにまとめている。

 (1) 空間:日常生活
 (2) 観察者;目に入る光景を謎として発見
 (3) 探偵:論理的に解明 (3.1)観察者≠探偵
 (4) 効果:日常の異化 (※11)     
 


 これに当てはめると千反田は「観察者」としての役割を担っていることがわかる。「謎」を発見し、「私、気になります」という決め台詞(?)とともに奉太郎という「探偵」に伝えるのが古典部シリーズにおける日常の謎を扱う際の千反田の役割だ。
 日常に起きる出来事を「謎」として発見されなければ物語は始まらない。しかしそれは「人間性の謎」にも言えることだ。「謎」を「興味」によって発見する点で両者はとても似通った性質を持っていることがわかる。
その点で千反田の「私、気になります」という台詞は重要な意味を帯びてくる。「気になる」とは詰まる所「興味を持つ」ということだ。それは「日常の謎」及び「人間性の謎」を導くキーワードだということは前述のとおりだ。この二つを同一シリーズで扱ったのはその親和性の高さを表している。
『愚者』は日常の謎がほとんどを占める古典部シリーズの中で現在のところ唯一(作中作とは言え)殺人を扱った作品だ。そのため、シリーズ異色作のようにも一見すると思えるが、人間性の謎というテーマに目を向ければ何も不自然なことはないのである。
 作風が豊かな米澤穂信という作家を「日常の謎」派と括るのはだいぶ暴力的な決めつけである。しかしデビュー作以降いくつもの日常の謎を生み出してきた人物がバークリーの人間性の謎を日常の謎を扱ったシリーズの続編で描いたことは必然だったのである。シリーズの中心にいる千反田という存在は格好の媒介者だったわけだ。

 しかし千反田の役割は「観察者」として日常の謎と人間性の謎の相似性を証明するだけに留まらない。
 バークリーは多重解決によって最終解決もそれが真相かどうかはわからず、小説がそこで終了することでそれを読者が真相だと受け入れざるを得なくしていることを暴いた。それは『愚者』においても同じだ。なぜ奉太郎の考えた推理こそが「本郷の真意」だと言い切れるだろうか。この推理に矛盾するようなメタ証拠がさらに発見される可能性は否定できない。
 しかし千反田はこの奉太郎の解決に「納得」する。なぜならこの解決なら千反田の疑問に感じていた部分に全て説明がつくからだ。
 バークリーは「探偵は自分の推理を真相だと証明する手段がない」というアポリアを提示した。米澤はこれに対して『愚者』を通してこう答えたのである。「ならば探偵は真相を明らかにするためでなく誰かを納得させるために推理するのだ」と。
 このテーゼは入須の思惑とも関係してくる。入須の「シナリオコンテスト」とはつまり入須が「これなら企画として成功する」と「納得」させる推理が求められることになる。そもそもこの映画には「真相」が存在しないということも、このテーゼを前景化するための構造的工夫なのである。
 このテーゼはその後の本格ミステリの潮流として一般化していることが指摘されている。法月綸太郎は円居挽『烏丸ルヴォワール』の解説で、二〇〇〇年代後半から一〇年代はじめにかけて推理の真実性よりも推理そのものの面白さを重視する作品が見られるようになり、その代表として円居『丸太町ルヴォワール』、城平京『虚構推理』、そして米澤『インシテミル』の三作を例に挙げ、これらの共通点として「ディベート小説」であることを指摘している(※12)。
 「推理の面白さ」の重視はバークリーが多重解決によって前面に打ち出したものの一つであり、推理と推理を戦わせ必然的に多重解決的構造になる「ディベート」がこれらの作品の核となったのは偶然ではない。また「ディベート」の目的は聴衆を「納得」させることであり、これら三作と『愚者』は同一線上にあることがわかる。相違として前者は不特定多数を納得させる必要があるのに対して後者は特定の個人を納得させることが目的であること、また後者は物語の序盤では通常のミステリのような「真相」を探す物語のように見せかけようとしているのに対して前者は「推理の面白さを競うゲーム空間」としてルールを定式化して「真相」を探すことへの執着はさらに薄まっていることが挙げられる。『インシテミル』より五年ほど先行して発表された『愚者』はこれらの前段階、先駆けだと考えられないだろうか。
 千反田を「納得」させることで作品を終了させるという米澤の選択はバークリーのある意味で本格ミステリへの悲観的な視線に対してそれを逆手にとって本格ミステリの新たな可能性を提示したのであって、この回答はその後のミステリの動向を見るに成功したのだ。
 『愚者のエンドロール』というタイトルはこのような戦略への米澤の自信が表れている。作中で千反田はタロットカードで表すと「愚者」だとされている。その千反田の「納得」によって幕が引かれ、映画の終わりとともにエンドロールが流れ始めるのである。

(注釈)
※1米澤穂信 滝本竜彦 対談「HTML派宣言!」(『ユリイカ』二〇〇七年四月号)一九四頁
※2我孫子武丸「『探偵映画』について」http://blog.textt.net/abiko/7 最終閲覧二〇二〇年一月十八日
※3ここでの『毒チョコ』に対する見解は千街晶之『水面の星座 水底の宝石』に大きく依ったことを明記しておく。
※4米澤穂信『愚者のエンドロール』九九頁
※5同書一六九頁
※6同書二二三頁
※7同書あとがき二五四頁
※8同書二二五~二二六頁
※9アントニイ・バークリー『第二の銃声』七~八頁
※10米澤 前掲書二五一~二五二頁
※11海老原豊「終わりなき「日常の謎」」(限界研編『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』)三一二~三一三頁 なお、引用するに当たって簡略化した
※12法月綸太郎「円居挽『烏丸ルヴォワール』解説」四九六~四九七頁

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