「ゲーム的多重解決ミステリ」試論

 「過去に書いた評論をネットに載せておこう」シリーズ第一弾。2018年に同人誌『ボクラ・ネクラvol.1』に掲載した「多重解決というゲームの中で -ゲーム的多重解決ミステリ試論-」を公開します。

 『ボクラ・ネクラ』は不毛連盟という自分とワセダミステリ・クラブの同期と先輩、計4人で立ち上げた同人団体が発行している同人誌です。ふざけた名前だし、ふざけた企画(ex.『2分間ミステリ』全問レビュー)もやっていますが、評論の中身だけはまじめです。

 この評論を書いたきっかけは、第一節でも少し触れてますが、「最近多重解決がブームって言われてるけど、それって2000年ごろにも千街さんが言ってたじゃん」と思ったことです。千街晶之さんの『水面の星座 水底の宝石』は自分が評論を書こうと思ったきっかけの一つであるくらい思い入れのある一冊で、そこで語られていた多重解決論も強く印象に残っていたことからこのようなことを思ったのだと思います。
 また「多重解決って「真相の前景化」ばかり注目されているが、役柄論に大きな影響を与えているのではないか」ということを考えたのも執筆のきっかけの一つです。5年近く前、別の評論で『愚者のエンドロール』論を書いたときにぼんやりと思っていたことなのですが、これが新しい多重解決ブームの特徴なのではないか、と考えるようになるまでにはもう少し時間がかかったわけです。

 あまりオリジナルの造語を使って評論を書くのは得意ではないのですが、あえて「ゲーム的多重解決ミステリ」という造語を用いて論じてみました。このような視点が妥当かどうか、皆様からご意見をいただけると嬉しいです。それではよろしくお願いします。



多重解決というゲームの中で -ゲーム的多重解決ミステリ試論-

1 多重解決ブームの質的変化 
 ここ最近の国内本格ミステリシーンのブームの一つに「多重解決」を挙げても異論はないだろう。特に二〇一五年に深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』がその年の『本格ミステリベスト10』で一位にランクイン、同年に井上真偽が『その可能性はすでに考えた』を発表し、翌年の『ベスト10』で続編『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた2』がトップを飾るなど、多重解決が本格ミステリシーンにおいて大きな注目を集めたのは記憶に新しい。
 ミステリ評論でも最近の多重解決ブームを「テン年代ミステリの一傾向」として注目した論稿が発表されている。たとえば法月綸太郎は円居挽『烏丸ルヴォワール』の解説(二〇一三年)では本作の他に米澤穂信『インシテミル』、城平京『虚構推理』などのディベート小説的な多重解決を挙げながら二〇〇〇年代の後半から二〇一〇年代の初めにかけて「『謎とその論理的解決』というジャンルの定式を土台から問い直すような試み 」(※1)を行ったと評している。また井上貴翔「〈集中〉と〈拡散〉をこえて」(押野武志ら編『日本探偵小説を知る』(二〇一八年)収録)では、深水や井上真偽の他に白井智之や北山猛邦の作品を挙げて、ここ数年の多重解決ブームを「推理それ自体の前景化」が進行した近年のミステリシーンの表れだと指摘している (※2)。
 真相にカタルシスを求めてきた本格ミステリが、真相が複数出現する多重解決もののブームによって、テン年代ミステリでは真相そのものよりも推理過程に注目が集まるようになった、というのが両者の共通見解と言えるだろう(ただし法月はテン年代の前半、井上は後半のミステリに注目している)。
 このような分析は、肌感覚としても現在のミステリシーンの一端を的確に表しているように筆者は感じる。「推理それ自体の前景化」という現況は頷けるし、そのようなシーンの形成を多重解決ミステリが担っているという指摘も首肯したい。
 
 その一方で、多重解決ブームを単にここ数年のブームと捉えることには、わずかながら違和感を覚えてしまう。
 千街晶之は『水面の星座 水底の宝石』(二〇〇三年)の第十章「多重解決の眩惑」で、貫井徳郎『プリズム』(一九九九年)や西澤保彦『聯愁殺』などを取り上げ、近年(=二〇〇〇年代初頭)多重解決ミステリが多く発表されていることを指摘、上記二作品を分析し、これらの作品が推理の過程を真実よりも重視して書かれており、伝統的な本格の基盤そのものが問われているという認識を示している(※3) 。
 千街の論稿はちょうど法月の論稿から十年、井上のものからは十五年前に書かれたものである。しかし、そこに書かれた内容は、現在多重解決がブームであり、それによって推理過程の重視、つまり「推理それ自体の前景化」が進行している、という十年後のミステリシーンについて書かれた評論の結論とほぼ同じである。
 
 テン年代ミステリの特徴とされた多重解決と、それによる「推理それ自体の前景化」は、ゼロ年代初頭のミステリシーンでも指摘されているのである。誤解がないように述べておくが、「推理それ自体の前景化」という井上の論は、多重解決以外のミステリの分析(森川智喜『スノーホワイト』など)からも指摘されており、なにも筆者はこの風潮がテン年代ミステリの特徴であることを否定するつもりはない。しかし、ここ最近の多重解決ブームをこのコンテクストで捉えるだけでは、近年と二十年近く前の多重解決ブームの差を説明することができないのではないか。
 千街の指摘から分かる通り、多重解決ミステリは本質的に「推理それ自体の前景化」をするような作品群なのである。テン年代ミステリのこのような風潮は、ある意味で多重解決の持つ異形性に時代が追い付いた、と言えるのかもしれない。
 
 では、現在の多重解決ミステリは、結局十年前のブームに出現した作品群の焼き直しに過ぎないのだろうか?
 そんなことはないだろう、と筆者は考えている。
 前置きが長くなってしまった。本稿の目的はテン年代の多重解決ミステリに共通する新たな特徴を探っていくことである。批評性の高いミステリ群である多重解決ミステリの最新の特徴を探っていくことは、これからのミステリシーンの動向を占っていくことになるのではないだろうか、という目論見もある。

 ……こんな大それたことを言ったはよいが、筆者の考える最近の多重解決ミステリの特徴は、既に先達によって多少述べられていることなのである。ただ「推理それ自体の前景化」ばかりに注目されている分、あまり注目されていないだけで。
 テン年代の多重解決ミステリを見通すキーワード、それは「ゲーム」である。

2 「ディベート」というゲーム空間 
 法月は前述の解説の中で諸岡卓真の『虚構推理』に関する論稿(※4)を引用しながら「推理の真実の真実性という問題を後景に退けつつ、純粋に推理そのものの面白さだけを競うゲーム空間を構築」しようという試みが、ゼロ年代後半からテン年代前半に目についたとしている(※5) 。諸岡の論では前半の「真実の後景化」に論の焦点があるが、法月は前半を重要視しつつ、後半の「ゲーム空間」についても目配せを行っている。すなわち『インシテミル』(二〇〇七年)の暗鬼館での殺人ゲーム、『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)の双龍会での私的裁判、『虚構推理』(二〇一一年)のインターネット掲示板でのディスカッション、これらのミステリにおける役割である。
 法月はこれらの作品が「謎解き/ディベートの行われる環境そのものが真相の如何と関わりなく成立するように、あらかじめシステム設計された小説」だと指摘する (※6)。各作品の特徴は解説本文を参照してもらいたいが、三作に共通する特徴は、謎解きが真相の究明を目的とせず、ディベートというゲームの中で自身が勝利することに目的が変わってきていることである。
 ディベートというゲーム空間では、必然的に推理を行う探偵役は二陣営以上に分かれ、それぞれが自身にとって都合の良い推理を用意することになる。必然的に陣営ごとの推理は対立し、どちらの推理が正しいと判断されるかによって優劣がつけられる。

このようにゲーム空間があらかじめ設計されることによって、ミステリは「謎と論理的解明」、「探偵―犯人の対立構図」などいった旧来の形式から離れたものへと変容していく。
ゲーム空間での推理はゲームにおける勝利のために行われ、その勝利条件は必ずしも真相を言い当てることを意味しなくなる。ゲームをエンターテイメントとして機能させることこそが必要となのである。
 他の論者たちが注目した「真実の後景化」「推理の前景化」は、いわば「ミステリのゲーム化」による結果なのである。
では、このテン年代ミステリに変容をもたらした「ゲーム空間」はどのように設計されているのだろうか。
 これからいくつかの多重解決ミステリを「ゲーム」として捉え、そのような作品を「ゲーム的多重解決ミステリ」と名づけ、その仕組みやミステリ的趣向への影響を見ていきたい。

3 ゲーム的多重解決の誕生
 まずはゲーム的多重解決ミステリがどのように出現したか、画期となったと思われる作品を取り上げたい。
 近年の多重解決ブームの発生について、ネットやSNSの浸透、「ポスト・トゥルース」時代(=真実が後景化してしまった世界)との関連から論じたものとして、井上の前掲評論の他、藤田直哉の『娯楽としての炎上 ポスト・トゥルース時代のミステリ』(二〇一八年)がある。これらの論は時代論として多重解決ミステリの持つ意味を的確に捉えているが、この視点からは前述の多重解決ブームの質的変化を説明できない。そこで、本論ではあくまでミステリの「仕掛け」としてゲーム空間がいかに登場したかについて注目していこうと思う。
 
 まず取り上げたいのは、後に『インシテミル』を書くことになる米澤穂信の『愚者のエンドロール』(二〇〇二年)である。
 出版年を見れば分かるように、この作品は千街の指摘したゼロ年代初頭の多重解決ブームと同時期に発表されたものであり、テン年代の多重解決ミステリより先行する作品である。しかし、筆者は『愚者のエンドロール』こそ、時代から一〇年ほど先駆けて、ゲーム的多重解決なるものの特徴を備えて出現した作品なのではないかと評価している。
 
 『愚者のエンドロール』は「古典部シリーズ」の二作目にあたる作品だ。折木奉太郎ら古典部は、先輩のクラスが制作したミステリ映画を見せられる。しかし脚本家の本郷が倒れてしまったせいで、映画は解決編が撮影されてない未完成品だった。折木らは先輩の入須冬実に頼まれて、映画の解決編を推理した三人の先輩たちの推理に誤りがないか検証する「オブザーバー役」を務めることになる。
 三人の推理を聞いた古典部の面々だが、結局すべての推理は折木によって否定されてしまう。そのことを入須に報告する折木だが、今度は入須に焚きつけられる形で「探偵役」を務めることとなり、作品に「叙述トリック」が仕掛けられていることを指摘し、この推理をもとに解決編が制作され、映画は好評を博すことになる。
 物語はこれにて一件落着……とはいかなかった。折木は完成した映画を見た古典部のメンバーから、脚本の出来を評価されながらも、この結末は脚本家の本郷が用意した結末ではないことを指摘される。徐々に自身の推理が誤りだった可能性を考え始めた折木はある結論に至る。自分たちの役目は脚本家が用意した真相を推理する「探偵役」ではなく、脚本を書けなくなった本郷の代わりに、映画の続きを制作する「脚本家」だったのではないか、と。折木に問い詰められた入須はそのことを認める。

 以上が『愚者のエンドロール』の梗概である。
 この作品で注目したいのが、一見普通の多重解決ミステリのようであって、実はゲーム的な設計が隠されているという、従来の多重解決からテン年代的なゲーム的多重解決へ移行しようとする作品として読めることである。
 そもそも多重解決ミステリは、テン年代以前からディベート的な空間を舞台にしてきた。それは多重解決ミステリの代表であるアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(一九二五年)の「犯罪研究会」然り、ゼロ年代初頭に発表された『聯愁殺』(二〇〇二年)の「恋謎会」然り、多重解決ミステリでは推理を競わせるという特質上、推理を開陳する「場」を伴ってきた。その点でテン年代の「ゲーム空間」はこのような場の発展形だと言えるだろう。
 しかし両者の推理空間には明確な違いがある。前者の作品では、おのおのが純粋に「真実」を見つけようとした結果として推理が対立してしまったのに対して、後者はゲームとしてのルールや勝利条件が存在し、そのような設計に即して推理が繰り広げられるのである。
 『愚者のエンドロール』の意義はこの空間認識のズレにこそある。
 折木は最初入須からの依頼を、単純に真相を見つけることだと思い込まされていた。しかし実際に折木らがやらされていたのは「シナリオコンテスト」であり、そこでの勝利条件は、もともとの脚本の結末を推理することでなく、入須から認められ、映画を見た人が納得し、映画製作が結果的に成功するような脚本を「推理=制作」することだった。
 折木は当初、純粋に本郷の脚本を復元しようと三人の先輩の推理を吟味し、自身も推理したつもりだった。しかし実際には「シナリオコンテスト」というゲームに気づかぬうちに参加させられていたのである。このようなゲーム空間が隠されていたことに、従来の多重解決ミステリからゲーム的多重解決ミステリへの移行を見出すことができるだろう。(この章の冒頭にも書いたが、米澤が後に『インシテミル』を書いたことも示唆的である)。
 この他にも『愚者のエンドロール』はゲーム的多重解決を考えるうえで重要なパーツが既に組み込まれているが、これらについては次章以降、話題に沿って触れていこうと思う。

 『愚者のエンドロール』はゲーム的多重解決を先取りしたような作品であった。しかしテン年代のゲーム的多重解決ミステリの多くが、ゲーム空間を明示的に設計し、そのゲーム空間を前提として推理を繰り広げている点で、ゲーム空間が巧妙に隠されている『愚者のエンドロール』と一線を画している。言い換えれば、『愚者のエンドロール』が発表されたゼロ年代初頭のミステリシーンでは、ゲーム空間を前提化できるような時流ではなかったと言えるのではなかろうか。
 ゲーム空間を前提にしたミステリの一般化、この流れを決定的にした作品として歌野晶午『密室殺人ゲーム 王手飛車取り』(二〇〇七年)が挙げられるだろう。
 この作品ではインターネットのライブチャットを使って、「頭狂人」らハンドルネームで呼び合う五人が、現実に起きた殺人事件を推理しあうゲームに興じている。これだけなら『毒入りチョコレート事件』や『黒後家蜘蛛の会』の舞台をネットに移しただけに見えるが、この作品の最大の特徴は、推理する事件を参加者自身が起こしている点だ。つまり、真相は「出題者」が把握しており、残りの人は出題者の仕掛けたトリックを見破ろうとする、クイズの「回答者」としてゲームを楽しんでいるのである。
 回答者が複数いることで必然的にこのゲームは多重解決の様相を呈してくるが、本作は従来の多重解決ミステリよりも、その名の通りゲーム性が高いことも特筆すべき点である。
 「出題者」が分かっている以上フーダニットは基本的に成立しない(犯人は出題者なのだから)、ゲームとして殺す以上、動機は関係ない(「殺したい人間がいるから殺したのではなく、使いたいトリックがあるから殺してみた」のだから)、といったような作品の特徴は、この作品がルールや形式が定まったゲーム空間を前提にしているからこそ表れてくるものである。
 またシリーズの二作目『密室殺人ゲーム 2.0』(二〇〇九年)では、「真実の後景化」と言えるような事態が起きている。「Q3 切り裂きジャック三十分の孤独」では真相とは全く違う推理が行われたにもかかわらず、その推理が論理的かつ無矛盾であるために、出題者側がその推理を否定できず、「正解扱い」せねばならないことになるのだ。このような事態も、この作品が多重解決をゲームとして描いた結果である(ゲームの攻略法は一通りとは限らない)。
 そして三作目『密室殺人ゲーム マニアックス』(二〇一一年)では、その後のゲーム的多重解決ミステリを考えるうえで重要な設定が盛り込まれている。
 『王手飛車取り』での殺人ゲームは完全に五人だけの秘密の遊戯であったが、『2.0』で模倣犯が出現したことが判明する。そして『マニアックス』ではこの殺人ゲームをネット上に公開し、不特定多数の人をこのゲームの「視聴者」として巻き込み始めるのである。
 このような殺人ゲームの拡散は、ゲーム自体が個人で楽しむだけのものから、当事者以外もゲームを「観客」として見ることで楽しむ、いわばエンターテイメントとしての性質を持つに至ったことを意味する。このような発想がテン年代的な多重解決ミステリにおいて重要な意味を持つことは、後述する『ルヴォワール』シリーズや『ミステリー・アリーナ』を見れば明らかだろう。どちらもゲーム空間が見世物として成立しているミステリである。

 『愚者のエンドロール』と『密室殺人ゲーム』シリーズは、多重解決ミステリを扱った評論ではあまり触れてこられなかった作品だ。しかし、ゼロ年代とテン年代の多重解決ミステリの差異を考察するうえで、この二作品は両者を橋渡しし、テン年代のゲーム的な多重解決を準備した作品と言えるのではないだろうか。『愚者のエンドロール』によって(「真実の後景化化」を伴う)新たなルールが組み込まれたミステリの形式が用意され、『密室殺人ゲーム』シリーズによってこの状況にマッチするようなゲーム空間が提供された。このような流れのもとに『密室殺人ゲーム』シリーズと時を同じくするころから、ゲーム的多重解決が出現したと理解することも可能だろう。
 
4 「探偵役」から「プレイヤー」へ
 ところで『愚者のエンドロール』と『密室殺人ゲーム』シリーズにおいて、「探偵」という役柄はとても不安定な立ち位置にあることが分かるだろう。『愚者のエンドロール』での折木は、自身を探偵役だと思い続けたものの、実際の役割は「脚本家」であった。「密室殺人ゲーム」では犯人捜しをするでもなく事件のトリックをゲームのパズルのように解くだけの「回答者」だった。
 しかもこれらの役割は「犯人」とも重なるものである。「脚本家」は事件を解く側でなく作る側という点で犯人と同位置にあり、「回答者」はこのゲームにおいて「出題者」も務めることになる。
 「事件を生み出すもの=犯人」、「事件を追うもの=探偵」というような役柄論は、旧来のようなミステリにおいては有効な図式であり続けた。それは「犯人=探偵」のような役割を錯乱するような作風でも、図式自体は保持されてきた。
 しかし、ゲーム空間が導入されたミステリでは、この基本構図自体が揺らぎ始めている。
 ゲーム空間が導入されたミステリでは真相を見つけること(=従来の探偵の役割)が目的とはならない。ゲームごとに勝利条件が違い、そのルールにや状況に沿って登場人物は行動する。
 ゲーム中には推理することも求められるだろう。しかし、そこで行われる推理は、従来の探偵が真相を突き止めるためのものと違い、ゲームの要請に基づくものである。これがミステリというジャンルの中に留まりながら、従来のミステリでもっとも神聖視されてきた「探偵」というポジションが、解体され始めている理由である(この失権に、多重解決=複数の推理・探偵の出現による相対化も影響していることは言うまでもない)。
 ゲーム的多重解決ミステリには、事件解決のために推理を行う「探偵」はいない。そこにいるのはむしろ、勝利するため必要に応じて推理を行う、ゲームの「プレイヤー」である。

 「プレイヤー」と新たな役柄を提案してみたが、その役割は作品ごとのゲームの内容によって違うため、多義的なものにならざるを得ない。
作品によってプレイヤーの推理の目的は変わってしまう。それどころか従来の探偵とはかけ離れた推理以外の行動も行う。
 たとえば『インシテミル』でのゲームのルールは、「探偵」だけでなく「犯人」や「助手」を務めると賞金ボーナスがもらえる設定がされている。この設定だけでは従来のミステリの図式をはみ出ていないようにも見える。しかし、ある人物はより多く賞金を稼ぐために、「犯人」、「助手」、「探偵」すべてを務めようと画策する。ここに従来のミステリの役柄の意味が崩壊していることを見ることができるだろう。物語の構成上、(フーダニットの作品中で人を殺しているため)この人物が犯人として物語は幕を閉じるが、このようにルールの中での立ち振る舞いを考えたとき、「犯人」はあくまで一つのミッションのようなものであり、それに挑戦した「プレイヤー」としての一面が印象に残る。
 
 また、推理の目的が従来と全く違う例として『虚構推理』ほど分かりやすい題材はない。本作で行われる推理は真相を明らかにするものではない(真相は「幽霊である鋼人七瀬は存在する」という驚愕のものが既に明らかになっている)。鋼人七瀬は人々の想像力によって生み出されている以上、主人公の岩永琴子は人々に「鋼人七瀬はいない」と思わせることで鋼人七瀬の消滅を図る。そこで行われるのが「推理」なのだが、彼女はあえて「鋼人七瀬はいない」という、真相とは異なる推理をインターネット上で繰り広げる。それによって人々に鋼人七瀬の存在を信じ込ませないように画策するのだ。
『虚構推理』では明示的にゲーム空間が設けられているわけではないが、インターネットで岩永とネット上の不特定多数と議論する場は、「真相の追求」が目的ではなく「誰が一番もっともらしい物語を語ることができるか」が勝利条件のゲーム空間として機能していると言えるだろう。
 この作品において、プレイヤーである岩永は、インターネット上で誰よりも人々を引き付ける推理をするように競わされている。そしてプレイヤーの行う推理は、真相を導くためのものでなく、その正反対の「真相をねつ造する」推理である。これもまたゲーム空間が設定されることによって推理の目的が変化した一例である。

 また似たような例では井上真偽『その可能性はすでに考えた』シリーズも挙げられる。この作品の主人公である上笠丞は不可思議な現象に対して、あらゆる人為による可能性を否定することで「奇蹟の証明」をしようとする人物である。そのため上笠は他の探偵役たちの推理を次々に否定していく。彼はいわば「推理の否定」が自身の推理なのである。
 このような上笠の推理の特徴上、物語は基本的に上笠と他の人物による推理バトルというゲームが主眼になっていく。他の探偵(=プレイヤー)は「可能性さえ示せればいい」と荒唐無稽な推理を繰り広げるが、これも「上笠が全ての可能性を否定できれば勝利(=奇蹟の証明)」というルールが存在するからである。上笠と他のプレイヤーの勝利条件が違うのもゲーム的多重解決ミステリならではである。また続編の『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた2』では、プレイヤーごとの思惑が重なり、さらに複雑なゲームになっている。

4 観客とエンターテイメント
 前章で見てきた通り、ゲーム空間は従来のミステリの図式だけでなく、役柄すらも塗り替えてしまっている。
 この「プレイヤー」という役柄の定義は、その役割についてはゲームごとに違う(さらに言えばゲームのポジションごとに違う)ため定義しにくいが、とりあえず「ゲーム空間の内部の人間」であることは最低条件である。
 ではゲーム空間の外部に目を移してみよう。そこにはゲームを外から楽しむ「観客」がいる。
この「観客」も、ゲームには欠かせない存在となっているのがゲーム的多重解決ミステリなのである。
 たしかに観客はプレイヤーのようにゲームに参加したりはしない。しかし、そもそも観客がいないゲームはエンターテイメントとして成立しないのである。

 例えば前述の『ミステリー・アリーナ』では作中で推理問題を回答者に早押し形式で競わせるテレビ番組「ミステリー・アリーナ」が国民的娯楽番組として放送されている。テレビのクイズ番組という形で作られたゲーム空間で、回答者が賞金を賭けて次々と推理を繰り広げる多重解決ミステリだが、このゲーム空間はテレビの視聴者という観客がいてこそ成立しているのである。さらに、このゲームが早押しクイズの形式をとっていることで、回答者は誰よりも早く推理を行おうとする。そのため章ごとに誰かしらが推理を披露して、視聴者が退屈しないような作りになっている(そしてこのようなゲーム形式には、後述するように実は重要な仕掛けがある)。
 同様の作品には円居挽の『語り屋カタリの推理講戯』(二〇一八年)がある。この作品もプレイヤーは5W1Hの形で運営から提示される謎を解いてポイントを稼ぐゲームに参加するが、このゲームもテレビ中継されて観客がこのゲームを観戦して楽しんでいる。
さらに、このゲームには他にも観客を楽しませるためのルールが設定されている。プレイヤーはゲーム中に運営が提示した謎を発見した場合、「エクストラクエスチョン」として謎を提示し、運営や観客が承認すればこの謎に挑戦してポイントを稼ぐことができるようになっている。例えば第一話「フーダニット・クインテット」では、運営が提示した謎とは関係なくプレイヤーの一人が殺されて、主人公のノゾムは「WHO(殺したのは誰か)」の謎に挑戦する(しかもこの殺人はこのゲーム空間を利用したトリックが仕掛けられている)。
 さらにこの連作短編集は、ここで取り上げてきた作品と違い、多重解決を前面に押し出したミステリではない(全短編で多重解決が行われているわけではない)が、二章の「ハウダニット・プリンシパル」などはゲーム的多重解決の作例として相応しいものである。この章ではプレイヤーであるカタリが、ライバルのプレイヤーをプライドごと負けさせるためにある作戦をとる。推理勝負でカタリの説が「観客」に支持されて勝利したあと、カタリはライバルに自分の推理が出鱈目であるかのようなことを示唆するのである。その後のカタリとノゾムの会話で、本当はやっぱりカタリの説が真相であることが分かるが、カタリはライバルを「推理は正しかったのに負けた」という屈辱感を与えるためにあのような示唆をしたのである。このような推理が正しいかあやふやなまま勝利が確定する状況を活かしたストーリーも、ゲーム的多重解決ならではである。

 観客が推理の優劣=勝敗を決めている状況からも分かるように、ゲームがエンターテイメントとして成立している以上、そこで最優先されるのは観客を楽しませることになる。そのためゲームの見せ場である「推理」は、観客が盛り上がるように配置される。真相の追求のために行われるのではなく、ショーとしてゲームを盛り上げるために行われる推理、これが先行研究で指摘されてきた「真実の後景化」であり、それに伴う「推理それ自体の前景化」である。そしてその実態は「推理のエンタメ化」ともいえるだろう。推理が「観客を楽しませるため」に行われるのがゲーム的多重解決ミステリなのである。
 
 このような「推理のエンタメ化」は他のゲーム的多重解決ミステリにも当てはまる現象である。例えば円居はデビュー作の『ルヴォワール』シリーズで既に、私的裁判である「双龍会」というゲーム空間を用意し、そこでプレイヤーの「龍師」たちは推理を繰り広げてきたが、そこでの推理は地味な本当の真相を指摘するのものよりも、観客を魅了するような推理がゲームの勝利において重要であった。また前述の『虚構推理』もインターネット上の観客が納得するような物語を提示するには、物語=推理が魅力的である必要があった。
 さらに言えば、このような「真実」よりも「観客」が優位にある状況は、『愚者のエンドロール』までさかのぼることができる。折木自身は「真実」を追求したつもりであったが、結局彼が閃いた映画の結末は、本郷が想定していたものとは違った。しかし、それでも映画は折木の推理をもとに製作され、好評を博す。つまり折木の推理が真実を指摘できていなくても、映画の「観客」たちは「おもしろいから」という理由で受け入れたのである。さらにシナリオコンテストを開催した入須は、その動機が実は「本郷が用意してきた脚本がつまらなかったから」であることを折木の姉に暴かれている。映画というエンターテイメントを盛り上げるために探偵に推理をさせる、この転倒した関係の中心にいるのが「観客」なのである。

5 「主催者=ゲーム空間」との対決
 ところで、入須は推理をエンタメ的な「おもしろさ」で支持するか否か決めている点で、他の「観客」たちと同様の性質を有している一方、他の「観客」が用意されたゲーム空間とそこでのプレイヤーによる推理合戦をエンタメとして享受するのみであるのに対して、入須はそもそも自身でゲーム空間(シナリオコンテスト)を用意した点で他の観客と異なる性質を持つ。彼女はゲーム空間を巧妙に隠し、どの推理を映画化するか(どの推理が最もおもしろいか)を決定する立場にいた。
 それは言い換えれば、プレイヤーの勝利条件を左右することができ、どの推理を「真相として扱うか」を決めることができる人物である。それは言わば、ゲームの「主催者」の特権である。

 「主催者」はゲーム空間を用意し運営する人物、またはそのような組織(人格化されていない場合もあるため)のことを指す。当たり前のことだが、主催者はゲーム空間を用意しているため、ルールを自身の目的のため都合よく設定することもできるし、ゲームの運営においてゲームに干渉することもできる、特権的な存在だ。
 そうはいっても、主催者が必要以上にゲームに干渉してくることは、テン年代初めまでの多重解決ミステリでは見られなかった。例えば『インシテミル』は、たしかに殺人が起きるきっかけは運営が用意したが、その後のゲームの展開には干渉することなく、ゲームの展開を観察していた。『丸太町ルヴォワール』でも「黄昏卿」という裁判官にあたる特権的存在はいたが、彼が私情を挟んでゲームの展開を捻じ曲げるというようなことはしなかった。
しかし、近年のゲーム的多重解決ミステリには、運営側が自身の利益になるようにゲームに干渉する作品が出現してきた。もし多重解決ブームを細分化するとしたら、千街が指摘したゼロ年代初頭のブーム、法月が指摘したゼロ年代後半からテン年代初頭のブームと区別して、二〇一五年以降のブームの特徴としてこのことが挙げられるかもしれない。

 前述の二作品『ミステリー・アリーナ』と『語り屋カタリの推理講戯』はそのような趣向を持った作品である。
 『ミステリー・アリーナ』は前述通り早押しクイズ形式で回答がなされていくが、クイズの問題文が進むにつれて今までの回答者の推理がハズレであることが明らかになっていく。それもそのはずで、実は問題の作成者は事前に複数の真相を用意しておき、回答者が答えるとシナリオが分岐して「その回答が不正解となるシナリオ」が問題の続きとして提示され、最終的には全員が不正解になるように仕組んでいたのだ。
 『語り屋カタリの推理講戯』では、ゲームのルールとして5W1Hの六種類の謎全てを正解するとゲームから解放され、莫大な賞金と願いが叶えられることになっているのだが、実は人気のあるプレイヤーをゲームに残しておくために、運営は提示する謎を調整していたことがノゾムによって見抜かれる(※7)。
 
 主催者はゲーム空間の運営を行っている点でプレイヤーよりも上位の存在である。プレイヤーはゲームの枠組みの中で勝利を模索していかねばならない以上、主催者の手のひらで踊らされているに過ぎないと言えるだろう。
 この「主催者―プレイヤー」の関係性は、かつて「メタ犯人―探偵」という後期クイーン的問題で語られてきた操りの構図と近しいものがある。ゲームの外にいる主催者はプレイヤーにとってメタレベルの存在にあり、定められたルールの下でプレイヤーが推理を繰り広げねばならない状況は、新たな後期クイーン的問題の展開と捉えることもできるかもしれない。

 ゲームを支配する主催者に、プレイヤーは為す術がないのか。興味深いことに『ミステリー・アリーナ』と『語り屋カタリの推理講戯』は、似たような対処法を編み出している。それは「観客を巻き込む」という荒技だ。
『ミステリー・アリーナ』では番組の不正の証拠をプレイヤーたちが協力して、視聴者たちに公開することでゲームを崩壊させた。『語り屋カタリの推理講戯』でノゾムは、運営がプレイヤーだけでなく観客まで見下していることを指摘する。運営はノゾムがゲームの目的(謎)を見抜いた者として勝利を認めるが、その謎に観客に対する秘密が関わっているのは示唆的である。
 観客は主催者同様、ゲーム外の人物たちである。そして観客の存在によってゲームはエンタメとして成立し、ゲーム空間は存続し続ける。つまり、裏を返せば観客にはゲーム空間そのものを解体する力を持っているのである。そして、その観客を動かすことができる者こそプレイヤーなのである。
 主催者はプレイヤーをルールで縛り、プレイヤーは観客を推理で動かすことが可能であり、観客は主催者の拓くゲーム空間に必要不可欠である。
ゲーム空間はこの奇妙なパワーバランスのもとに成立しているのだ。

5 おわりに
 以上、ゲーム的多重解決ミステリと名づけた作品群について、その特徴とそこにおける役柄に関する考察を試論として行ってみた。
ゲーム空間が前提として定着している現在の多重解決ミステリシーンからは、今後このゲーム空間そのものを、自覚的に問題とする作品が更に発表されてくるだろう。
 このような視点は井上貴翔の指摘や藤田直哉が『娯楽としての炎上』で描いた図式、すなわち多重解決ミステリが「ポスト・トゥルースの時代」を反映しているという視点からも、「このようなゲーム設定=時代がなぜ成立するのか」という課題設定として立ち現れてくる。
 しかし、そのような社会反映論的な視点も重要だが、ミステリの変遷の中で、多重解決を精査し位置づける必要があるのではないだろうか。
かつて千街は、異端的なジャンルである多重解決ミステリが続々と発表されることで、伝統的な本格の基盤が問われ、結果としてミステリに大きな地殻変動が生じるかもしれないと予言していた(※8) 。その多重解決がメインストリームになり始めているのが、現在のミステリシーンなのである。ならば一度、ミステリを通史的に捉え、地殻変動が生じているかどうかの検証が必要な時期に差し掛かっているのではなかろうか。
 本稿で挙げた「ゲーム空間の導入」こそが「地殻変動」なのか。これからのミステリシーンを観察しながら見極めていきたい。

(脚注)

※1 法月綸太郎「円居挽『烏丸ルヴォワール』解説」講談社文庫 二〇一三年 四九六、四九七頁

※2 井上貴翔「〈集中〉と〈拡散〉をこえて」(押野武志ら編『日本探偵小説を知る』北海道大学出版会 二〇一八年)一三五~一三七頁

※3 千街晶之『水面の星座 水底の宝石』光文社 二〇〇三年 二四四~二五一頁

※4 諸岡卓真「創造する推理」(諸岡、押野武志ら編『日本探偵小説を読む』北海道大学出版会 二〇一三年)のこと

※5 法月前掲 四九六~四九七頁

※6 同書 四九七頁

※7 また、本文中の二作のようなルールの不正などゲーム空間そのものに直接干渉はしないが、「主催者」が圧倒的存在感によってゲームの発生や展開に影響を与えているような作品も存在する。井上真偽『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた2』の第二部「葬」では、闇組織のボスであるシェンの存在が推理バトルを発生させ、また彼女の意向がプレイヤーの動きを大きく左右している。

※8 千街前掲 二五一頁



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