【強欲】

作者の歪んだ思想が発現された文章なので閲覧注意






雑踏を緋色に染め上げていく黄昏。仄暗さと温かさが同居する時刻。
理想の暮らしが出来ている…とまではいかないが、不満の無い生活が過ごせるくらいには綺麗なマンションの屋上。
夕日に照らされた深紅の瞳が更に妖艶に揺れる。拭われずに溢れた涙を伴って。

「待って」
どうして。
なんで。

幾つもの疑問形を。決して答えの出ない問いが。積み重なっていく。頭上に生えた獣のような耳も、臀部から伸びるしなやかな尻尾も、彼女の悲しみに連動して揺れ動く。
それに応えるように、ただし答えはせずに。

「僕は、自分の事をずっと強欲だと思っていた」
「満たされない、恵まれない、飢えている。だから欲した。けど、」
「君に与えられた愛を綺麗に受け取ることが出来なかった。強欲になりきれなかったんだ。」

”彼”と”彼女”の互いの距離は10mも無い。駆けだして手を伸ばせば今にも届いてしまうだろう。だが、それが出来ない。言葉を投げかけても、今すぐ手を伸ばして抱きしめても、この距離は、心は、埋まらないだろう。
手摺の向こうで首筋にナイフを添えている”彼”。
その切っ先は、柔肌の薄い皮を割いて紅を静かに滴らせていた。
自分の命を人質にするという行為はその命を大事に思っている他者がいなければ成立はしない。
今それが成立してしまっているほどに、彼女は彼を愛していたのだが。

「こんな情けない自分が、君の愛を得るのにふさわしいのかって、ずっとペルソナが囁くんだ」
「そんなことない。貴方は」

とても立派で。優しくて。だから好きになったの。悲痛に囁く彼の姿を前にして、その先の言葉を紡げなかった。

「貴方と過ごした日々も、共に分かち合った幸せも、まだ終わらせたくないわ。」
「いいんだ。悪いのは僕で、君は何も悪くないんだ。」

遮るように拒否する言葉。
何度も重ね合って愛を囁き合った唇も、互いに閉ざされて。暫しの沈黙だけが寒空の中に在って。

「君の中で生きたい」
「一生消えない呪いになれたら」
「すぐに忘れてしまえたらそれでもいいんだ」
「だから」 

静寂を切り裂く言葉。


「君の思い出の中でだけ存在する僕になりたい」


そう言ってナイフを深く押し当てた。鮮血が舞って、駆けだして追いすがる彼女の頬を濡らす。
力の抜けた彼は投げ出されるように、ゆっくりと身を落としていく。
獣の力を使って跳ねた彼女の肢体は、自由落下する彼の身体に追いついてそのまま強く抱きしめた。
落ちていく。
落ちゆく瞬間の、この一時の、刹那の中に存在する永遠は、誰にも邪魔されない二人だけの世界だ。
二人でならどこまでも落ちていける。二人一緒でならこのまま来たる結末もきっと受け入れられるだろう。













だけど。



彼女も欲深かった。
2人でやり残したことも、これからやりたいこともいっぱいある。どこまでも貪欲に。だからこそ、迫る地表に向けて手を伸ばしていた。
精一杯の願いを、祈りを、愛を。その全てを生み出す力に捧げて。

「愛してるわ」

貪欲ゆえに手にした―万物を生み出す力をもってして大きな大きなぬいぐるみが顕現した。
ぼすっ、と柔らかさに包まれて2人、落着して顔を突き合わせる。抱きしめた手を緩めハンカチで首元の瑞々しい蘇芳色を拭い取っていく。
そこで彼女は気付いた。あるべき筈の、彼の取った行動からして無くてはならないものが無いことに。
首元に突き刺した傷跡。
血の量からして相当深く切り込んだはずなのに。

「君ならこうすると思った」

力の抜けた彼の身体がグッと持ち上がり濁したように呟く。
右手に持ったナイフ、その持ち手を握りなおすたびに切っ先から赤い液体が飛ぶ。

「もう」
「いっ、いででででで」

お返しと言わんばかりに、背を折りかねないほどの力で強く抱きしめる彼女。

「でも、よかった」
「試すようなことをしてごめん。まだ、愛してくれるかな?」
「これからずっと、嫌いになることなんてないわ」

はぐらかすような返答。

「いじわる」
「ふふっ、お互い様でしょう?」

彼女が先に地面に降り立って、差し出された手を掴んで彼も地に足を付ける。

「さっきの言葉、どこまで本当だったのかしら?」
「愛されることを恐れてたのは本当。だけど、もう怖くなくなった」
「じゃあ、こうしてもいいわけね?」

並んで歩いた街灯の下で、彼女から唐突に手を回して抱き寄せる。
頬に一瞬の温かさを感じたのちにそれはすぐに引き離された。
赤くなった彼女の頬を見とれて固まる。
自分から仕掛けておいて、恥ずかしさで上気してしまう。そんな仕草も堪らなく愛おしい。

「君の中で生きたかった、けどこうして生きて君を愛したいのも事実だ」
「両方叶えるなんて欲張りさんね。いつかきっとバチが当たってしまうわ」

強欲という1点での共通点。愛されたいし愛したい、その互いの欲望が生み出すところは愛の永久機関。

「何でも生み出せる力を得ても満足しない君に比べたらまだまだだよ」
「与えられる愛は生み出せないもの。だからこそあなたの愛が愛おしいわ」






黄昏は徐々に水平線に身を潜め、辺りは暗く影を落としていく。

愛を確かめ合い、生み出し合う、二人の邪魔をしないように、静かに夜闇で包んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?