見出し画像

タットヴァボーダ アートマンとは

アートマン(自分自身)とは

◆アートマン(自分自身とは何でしょう)

唯一なにも頼らずに自立して存在するのがアートマン。それがサッテャ(真実)であり、それ以外はミッテャー(自立して存在していないもの)
考えは意識に頼って現れているからミッテャー。
この世界はどれくらいミッテャー(自立して存在しないもの)なのか?=自分自身以外はすべてミッテャーである。私自身に頼って存在する。

私たちの混乱は、「存在しないものを、間違えて”在る”としている」勘違いから生まれている。たとえば、ポット(ミッテャー)と、その背後で支えている土(サッテャ)の関係。サッテャの背後に在るサッテャをどんどん遡ると、唯一アートマンになる。

私たちは何かに頼って安心を得ようとするけど、真実は「私自身が安心」ということしかない。適切に誰かに頼ったり相談したり信頼を寄せることはいいのだけど、人やモノ・お金を担保にしたり賭けたり何かに頼って解決しようとしたりは、それが失われたときや変化したときに不安や怒りを呼ぶ。何かに頼っての安心は、移ろう・失われる。物理的なこと・見えている世界ではなく本質は、「私自身が安心」。それを本当に「理解」するまでには難しいけど、それを「知っている」ということからまずは。

◆「意識」とは

一般的には、「意識がある・ない」という使い方。ここでは、認識のことを「意識」としている。意識が表れた姿。
アートマン(自分自身)を識別する方法が必要。例えば、波と海の関係。波を見ていてるけどそれは違っていて、実は波は海と同じもの。同様に、身体=私と同一視してるのは、識別が間違っている。意識は空間全体に行きわたっていて、意識の中にあらゆるものが現れている。

◆5つのコーシャ(鞘)

アートマンは、5つの鞘を超えたもの。私たちの本質はアートマン(自己の根源)。日常生活を行っている時にはアートマンを見ることができない。
たまねぎのように、何層にもわたってコーシャ(鞘)と呼ばれる層で覆われているから。ヨガの実践とは、このコーシャを、1枚ずつたまねぎの皮をむくように、外の層から順に取り除いていくこと。「私=身体」「私=考え」という認識の間違い、さらに、存在しないものを、間違えて”在る”としている。

◆アートマンは、3つの体と違ったもの

身体=認識が起こっている場所
皮膚の内側が私、外側が私ではない「世界」?
たとえば波のかたちをしているのが私、でもかたちのない海も同じでは??
私たちは、自分を「波」と認識してる。かたちあるもの、移り変わるもの、として制限している。海は「在る」。「在る」ことを「意識」と言い換えてみる。


◆タットヴァボーダ4つの方法論
ストゥーラ・シャリーラ(粗い身体・肉体)
粗くなった5つの基本要素から作られている。粗くなるプロセス(行程)を通って、属性をもって現れたものが世界である。現れる行程(パンチ―クルタ)を通って5元素が出現し、ストゥーラな身体が存在する。スークシュナ(精細な身体)が粗い身体(肉体)に重なってるから、この世界を体感できる。熟睡中は、「原因の身体」に戻っている。だから肉体は反応しない。ポットが土に還ったら、ポットは形が現れないのと同じ。
なんのかたちもない、源の世界(原因の世界)は、熟睡中に知っている。原因の世界から、すべての世界・空間も現れている。私=アートマンによって、私=ストゥーラ・シャリーラ(粗い身体・肉体)が現れている。私=意識であって、意識のベースである。
原因の身体、原因の世界は、同じもの。熟睡から目が覚めたときに、原因の世界から離れて、ストゥーラ・シャリーラに重なる。土からみると、「ポットらしさが加わった土」。そういった属性が加わった土が、ポットである。一般的に、私たちはポットというものを見てしまうけど。

感覚器官で得た情報をベースに、「考え」が生まれている。5つのエレメントが現れて、粗くなってストゥーラが世界に現れている。調和な行いの結果として、いただいてる。行いの結果が実っている。かならずどんな行いも、結果を実らせている。過去からの今回の人生よりも前も含めて、無数の行いの結果は、見えなくても実って、今がある。
行いとは選択のこと。人間のみが、行い=選択 ができる。人間以外も行いはしてるけど選んではいない。本能・プログラム。たとえば、ライオンは肉食以外はできない。そのかわり、それはプログラムだから罪悪感もない。
人間は唯一、プログラムではなく選択ができるし、「習性」ではない行いが出来る。それが問題をつくることもできるし、世界をつくることに貢献してる。調和も不調和もつくりだせる。数多のプンニャとパーパの組み合わせ。プンニャ(善い行いの結果)が優勢だから人間として生まれている。「なんで生きてるんだろう」という苦しみや葛藤も、祈りも、モークシャも、人間しかできない。
プンニャとパーパは、宇宙が記憶している。アディカーリ―=最上の目的・私は私に落ち着きたいという願望が、モークシャである。ダルマとモークシャの追究をして、その願望が叶えられるのは人間として生まれたときだけ。
そのぶん、自分を責めたり苦しんだりするのも人間だけ。動物は子孫を残すことを含めプログラムされた一生を全うするだけど、人間は違う。その願望をもっていれば、また人間として生まれてくる。
存在する・生まれる・育つ・変態する・衰える・朽ち果てるという6つの変化を持つものが、ストゥーラ・シャリーラである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?