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「#わたしのおすすめ本10選」、このハッシュタグ、ムズくね?

 Twitterでは「#わたしのおすすめ本10選」というハッシュタグが流行している。みんな、タイトルと著者名を淡々と並べている。
 流行りに乗って、僕もこれで呟いてやろうと思ったが、これは僕にとってとても困難を極めることである。
 だって、色々言いたくなるでしょう?
 説明も注釈もなくただ併記していくことなんて僕には出来ない。
 だってこんなのタイトルと著者名よりも先にせ(文字数
 となるのは目に見えている。

 だからここに書く。

 まず、「わたしのおすすめ本、その一」はこれ。

「HARD-BOILED WONDERLAND AND THE END OF THE WORLD」
(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド) 
 Haruki Murakami Authoring×Alfred Birnbaum Transration
(村上春樹著×アルフレッド・バーンバウム訳)

 THE elevator continued its impossibly slow ascent. Or at least I imagined it was ascent. There was no telling for sure: it was so slow that all sense of direction simply vanished.

 上の文章がこの本の書き出しである。

 村上春樹の著作の翻訳者といえば、アルフレッド・バーンバウムが定番。殆どは彼によって翻訳されている。
 そして、村上春樹の文体の特徴といえば、独創的な比喩にある、というのもまた定番。
 この作品にだって、こんなに素敵なメタファーがある。
「彼女の体には、まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに、たっぷりと肉がついていた。」
「ペニスとヴァギナはこれは合わせて一組なの。ロールパンとソーセージみたいにね。」
「どうしてみんな僕のことを玄関マットみたいに踏みつけていくんだろうってさ。」
「私はだいたいにおいて春の熊のように健康なのだ。」
「死そのもののような深く重い沈黙が地底の湖面を支配していた。」

 さて、英語版ではどう翻訳されているのだろう? と僕はページを繰る。
 ……しかし、どこにもないのだ。このセンテンスそのものがどこにもない。
 確かに、独創的な表現ではあるので、翻訳は難しい。百歩譲ってこれは許す、アルフレッドを。
 では、以下の文章はどうだろう。
「不思議なものだ、と僕は思った。人々は心というものをぬくもりにたとえる。しかし心と体のぬくもりのあいだには何の関係もないのだ。」
「子供というものは自分が世間に起こりうる大抵の種類の災厄からある種の神聖な力によって最終的には保護されていると考えがちなものだ。少なくとも私の子供時代はそうだった。」
「気の利いた女の子は日曜日の午後にコイン・ランドリーで雑誌を読んだりはしない。」
「雨はただの雨なのだ。それは屋根を打ち、大地を濡らし、川にそそぎこむだけのものだ。」
「私は残り少なくなった自尊心のありったけをかきあつめて傷のことを頭から追い払った。」
 どれも芳醇にして巧み、味わい深いセンテンスである。
 ……しかし、英語版にはないのだ。この文章もすべてすっぱりと削除されている。
 センテンス全体をマウスでドラックして、デリートキーを押しているのだ、アルフレッドは。
 これは、ほんの一例に過ぎないんだぜ。
 そんなのってあるかよ、と僕は思う。
 村上春樹の魅力のすべては英語圏の人には絶対に伝わっていない。
 それでもニューヨーク・ポストなどは日本の作家の第一人者として大絶賛しているわけで。
 まるで枯れてしまった泉をトルコ石のような輝きを失った瞳で見つめている、ひどく喉を乾かせたアビシニアン猫のような気持ちに、僕はなっているのである。

 ではなぜ、僕は好き好んであえて英語で村上春樹を読んでいるのだろう?
 その理由が以下である。

「村上春樹の文体はそもそも英語に合わせて作られている」。
 これはもう僕の持論でしかないが、あなたもそう思わない? 大きく頷くあなたの姿が見える。よしよし。
 村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」は当初英語で書かれていたというのは有名な話だが、やはりアメリカ文学の影響を色濃く受けている春樹ちゃんの作品は英語で読んでナンボ、という思いが僕にはある。日本語では違和感を感じる文章であっても、頭の中で英語に直すと、まるで晴れた日に女の子が洗濯物を干している情景を眺めているときのように、何もかもが僕の心を落ち着かせるのだ。

 きっと村上春樹の読者はみんな思っている。

「なぁ、春樹ちゃんよ、一度でいいから、英語で小説を書いてくれないか?と。

 叶わぬ願いなのは知っている。けれども、村上春樹自身が翻訳家として数々の「名翻訳書」を残している。

 これまで集めたTシャツの本とか、「そうだ村上さんに聞いてみよう」とかは確かにお金にはなるのだろうけれど、そうではなくて。

 あなたが本気で書いた「英語の小説」を僕はどうしても読んでみたい。まるでホッキョクグマと南極熊が赤道上で出会ったみたいに、僕は彼の表情を羨望と後悔の思いが入り交じる視線のまま見つめていた。

「ねぇ、僕は時折どうしようもなく悲しくなるんだ」と彼は言った。「だって僕だって、ただの男の子なんだもん」
「ただの男の子にだって、月の満ち欠けにケチを付ける権利はちゃんとある」と僕は言った。「それは等しく我々に与えられた権利なんだ」
「あなたは何も分かってないね」と彼は言った。「だって僕はただの日本の小説家なんだ」
「そうかも知れない」と僕は言った。「でもただの日本の小説家にだって英語で小説を書く自由は与えられている。ホッキョクグマにだって南極で暮らす自由があるようにね」
「ねぇ」と彼は僕を咎めるように言った。「あなたは何も分かっていないんだね」
「その通り、僕は何も分かっていない」と僕は同意した。「ところでそろそろ結論を教えてくれないかな」
「詳しくは翻訳家の柴田元幸との共著『翻訳夜話』を読んでくれないかな」と彼は僕をまるで履き古した靴下を眺めるような視線で見ながら言った。
「やれやれ」と僕は言った。「それをすでに読んだ上で、僕はこうしてこの文章を書いているんだぜ、ジェイ」
「やれやれ」と彼は言った。「ねぇ、僕はジェイじゃない。そして言うまでもないことだけれど、鼠でもない」

……スイッチ・オフ。

 

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