詩作におけるシステム論

 詩を書くとき、かつて若かったときは理想の美を追い求めていた。プラトンの言う天上の善のイデアのようなものに接近するため飛翔し上昇すること。それが詩を書くことだと思っていた。作品を書くときは何度も推敲を重ね、理想的な言語美に接近するように言葉を研ぎ澄ましていった。作品の完成度は高くなったが、形式的な美を追求するあまり、空疎で無内容な作品が生まれがちだった。これは詩作における理想主義と言っていいだろう。上に向かう運動である。
 その次は、自らの内奥や世界の内奥、すべての根底へと迫るために、自分の感受性を最大限駆使して、ひたすら世界の根底へと下っていった。人間というもの、世界というものは限りない深淵であり混沌であり、その根底を探って感知していくということ。その作業は詩でしか行えないと思っていた。作品はどんどん難解となり、独りよがりになっていった。これは詩作における神秘主義と言っていいだろう。下に向かう運動である。
 そのあとは、群衆に紛れた一庶民としての平易な生活の感慨をつづろうと思った。この人間社会で生きていく中で日々感じることを詩にしていく。このありふれた平凡な日常の中に限りない詩の源泉がある。そう思って労働や恋愛や育児などを作品にしていった。作品も他者との共有のもとに開かれていくものとして、対話を試みた。これは詩作における世俗主義と言っていいだろう。水平に向かう運動である。
 上と下と水平へと運動しながら詩を書いてきたが、最近は、この水平の生活の中に、さらに上と下に向かう運動があることに気付いた。日常のありふれた事象を題材に、理想的な美を生み出す上への運動。また、日常のありふれた題材を掘り下げてその根本に至る下への運動。この水平的な庶民の世界には、それぞれの事象ごとにさらに上と下と水平があり、それらが樹状に分岐して大きなネットワークを作っているのである。この大きなネットワークをとらえ、巨視的に見返したところでさらに人間と世界を描いていくということ。これは詩作におけるシステム論といってもいいかもしれない。
 社会科学においては世界システム論などが唱えられ、事象の相互連関的な構造的・システム的把握が進んでいる。詩を書く時にも、私は最近どうやらこのすべての事象が相互に連関しているというシステムの中で書いているような気がしている。

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