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【特別対談】女優・島田歌穂 × 仏文学者・鹿島茂 ミュージカル『レ・ミゼラブル』を10倍楽しむための読書術【3/3】

日本では『ああ無情』というタイトルでおなじみ、ヴィクトル・ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』。1987年の日本初演以来、ミュージカルのかたちでも日本で親しまれてきました。今年は4月から東京、名古屋、大阪、福岡、北海道と順に上演され、7/29、九州・博多座公演を初日を迎えました。書評アーカイブサイト「ALL REAVIEWS」では、今年の公演を記念して、初演より1,000回以上エポニーヌを演じた女優・島田歌穂さんと、フランス文学者・鹿島茂さんの対談を実施。ミュージカル初演のエピソードに始まり、原作と舞台との細かい違い、バルジャンが少年から取り上げた40スーは今だといったいいくらだったのか……といったマニアックな話まで、ミュージカルファンにもレ・ミゼラブルファンにも必読の対談、全3回の第3回目です。
第1回第2回もあわせてどうぞ。

【課題本】

ユゴーは「元祖キャラ小説家」である

鹿島:それからあとですね、島田さんに伺いたかったんですけども、ユゴーの作品の作り方というのはですね、今で言うキャラ小説なんだよね。これは他のどの小説家もできなかったことなんですよ。

キャラを強烈に作るんですね。キャラを作ってそのキャラをもってドラマを作り出すって言う...例えば、テナルディエにしても悪党だけどドジで間抜けでちょっと憎めないようなところもあって、とか、マリユスも結構動揺しながら、頼りない青年だっていう風な...「元祖キャラ小説」って僕呼んだんですよ。

島田:あー、確かに。そう言えますね。

鹿島:それが逆に言うと、今まではあまり評価されなかった原因なんです。それ現代小説じゃないじゃないかっていう。だけども今サブカルの時代がきて、アニメとかキャラを作ることが大切なんだ、ということになって。
それを多分元をたどっていくと、これは『レ・ミゼラブル』、もう一つ『ノートルダム・ド・パリ』。

このキャラの作り方というのがすごくて。だから エポニーヌっていうのは小説全体ではむしろメインな役ではないんですけれども、キャラの作り方が強烈だから、これを劇にしたりミュージカルにするとすごくいいんですよ。それで、おまけにもう一つはキャラの小説ってリメイクがいくらでもできる。

島田:あー、そうか。

鹿島:リメイク性っていう点がユゴ―の小説の特徴で。普通の、例えばあの『ボヴァリー夫人』とかそういうのをリメイクしたりアダプトしたら意味が消えちゃうんです。

でもユゴ―のものは、こういうふうにキャラが立ってますからリメイクしても平気なんですね。だから、お聞きしたかったのは、キャラっていうものが立ってくるから、そのキャラになりきるっていうことで、演じる方のいろいろ面白さっていうのはあるんじゃないかと思います。

島田:なりきる...はい、そうですね。

エポニーヌは“ミゼラブル”な役ではない!?

島田:『レ・ミゼラブル』は、やっぱり私にとってもすごく人生を大きく開いてもらった作品ですし、エポニーヌというキャラクターとの出会いっていうのが、本当に、私の人生、生涯、ここを超えられる出会いはないのではないか、っていうくらいの強烈な出会いでした。

エポニーヌを演じる時に、演出家に言われて非常に私が覚えていることは…本当に可哀想な女の子じゃないですか。両親もそんな両親だし、すごく貧しい中で、娼婦まがいな事もしたりして、でもマリユスにほのかな恋心を抱いて、でも全く振り向いてくれず。結局コゼットの橋渡しなんかしながら最後革命の中死んでしまうという。本当にレ・ミゼラブル…可哀そうなのの代表みたいな。

だけどすごく大事にしなくてはいけなかったのは、「自分の運命を決して嘆いてはいけない、絶対、私ってこんなにかわいそうねって表現してはいけない」ってことをすごく言われました。だから、明るく全部受け止めて、大丈夫よって言っていることが大事なんだと。

鹿島:なるほど、なるほど。

島田:すごくそれを言われました。

鹿島:いいキャラですよね。

島田:だからなおさら、見ていらっしゃる方に同情していただける役だったかもしれない。

ユゴーはキャラの名づけ名人

鹿島:ユゴ―のもう一つの特徴がありまして。キャラ作りがうまい、もう一つあって名前を決めるのがうまい。

島田:(深く)あー。

鹿島:これはね絶対的なもんなんですよ。バルザックが対照的にすごく下手なんですよ。

島田:そうなんですか!? 下手なんですか?

鹿島:名前を決めるのが下手でね。というのはバルザックは意味のほうから名前を決めちゃうんですよ。そうすると音韻ということを無視しちゃう。
でもユゴ―のキャラって全員ジャン・ヴァルジャン、ガヴロッシュ… 日本人だっていっぺんで覚えるでしょ。エポニーヌやファンチーヌね、これ全部ユゴ―が作った名前なんですよ。

島田:この名前を考えるのがでてますね(課題本を差しながら)。面白いです!



鹿島:名前をどういうふうにユゴ―が考えたかっていうのはね。コゼットというのがフランスでは僕結構ある名前だと思ったらフランスでは非常に珍しい。これはショーズchoseっていうフランス語の「物」から発想したんだろうっていう。
じゃあエポニーヌはどういうところから発想したかというと、これはですね。ガリアの時代、フランスになる前の、ローマ帝国にガリアが占領された時代に、そこで反乱を起こしたサビヌスっていう人とその奥さんのエポニーヌが、ローマに連れてこられて、そこで牢獄に閉じ込められて、最後に旦那さんが死刑になると奥さんも一緒に死ぬっていう、そういうのがあるんだってここに書いてあるんですね、それがもとになったと。

エポニーヌの本当の名前の由来・鹿島説初公表!


鹿島:しかし、私は研究者としてちょっとライバル心で、それだけではないだろう、というので…。

島田:聞きたい!

鹿島:そういえばエポニーヌってどっかで聞いたことあるよなぁと思って、思い出したのがボードレールの『惡の華』。

(本を開いて見せながら)そこの有名な詩なんですが、「小さな老婆たち」という詩があるんです。ここのところにエポニーヌという名前がでてくるんですね。この詩をボードレールは1859年に書くと、これヴィクトル・ユゴーに自筆で送っているんです。

島田:えー!!

鹿島:だからユゴ―はボードレールに贈られたこの詩でエポニーヌという名前が頭の中にあったんでしょうね。59年だから、60年のときに書いて、これだ!と思ったんじゃない、名前は。たぶんこれあってる。
これ誰も言ったことなくて、ここで初公表です!!

島田:わー、すごい!発表!!(拍手)

鹿島:すごいでしょ!

島田:わー、ちょっと感動ですね、感動の瞬間!

鹿島:本当にユゴ―って名前をつけるのうまいんですよ。ジャン・ヴァルジャンのジャンっていうのはフランス人で一番ある名前なんです。それがジャン。フランス語でヴォワラ Voilaっていうのは、「はい(ほら)」って事ね。(手を差し出しながら)ヴォワラってこういうふうに見せる。ジャン・ヴォワラジャンっていう、そういう平凡な名前なんだけれどもね。
最初ジャン・ヴラジャンってしてたのがちょっと音韻的に良くないじゃないっていうことで、ジャン・ヴァルジャンになったのね。

島田:それぞれ変遷があるんですよね、名前にも。

鹿島:名前が決まっちゃったらもう絶対にそれ以外はないというふうな音韻的な絶対性があるんです。だから皆いっぺんで覚えるでしょ。コゼットにしても、ファンチーヌにしろね。

島田:マリユス、アンジョルラス…。

鹿島:そう。

島田:テナルディエだけは最初からテナルディエだったって書いてありましたね。

普通名詞になったテナルディエとガブローシュ

鹿島:そうですね、うん、これはまあ、フランス語面白いんだけど、あのね、テナルディエって普通名詞にもなってるんですよ。

島田:へえー。

鹿島:だから、普通の辞書でこうやってテナルディエって引くとねえ、あのね「悪いホテルのオヤジ」と書いてあるんだよ、ははっ。〔笑〕

島田:はっ? もともと…

鹿島:そう、テナルディエからきちゃったの。

島田:そうなんだ! (笑いながら)「悪い、ホテルの、オヤジ」、面白い!

鹿島:それとかね、ガブローシュっていうのも、これもユゴーが使ったために「パリの街の中のストリートチルドレン」ってちゃんと書いてある。これも普通名詞になってる。だから、ユゴーっていうのはある種のこういう音韻とキャラを合わせる天才。
だから例えばこれと同じように『ノートルダム・ド・パリ』でもカジモドとかね、そういうふうな名前が出てきても、ほとんど固有名詞になっちゃう。

「何で急に歌い出すの?」はダメなミュージカル

鹿島:まあ、そういうことで色々とですね、ミュージカルの見方というものを最後にですね、ミュージカルをね、より深く楽しんでもらうためっていうですね、いろいろその点もちょっと最後にお聞きしたいと思っております。
ずいぶんいろいろなキャラクターとか、ミュージカル演じられてきたと思いますけれども、オペラ最初に見る人もミュージカル見る人も、どんな人でも最初はちょっと抵抗あると思うんですよね。

島田:そうですねえ。

鹿島:特に日本人はね…。

島田:うん、まだまだねえ…。

鹿島:特にミュージカル始まった頃は抵抗がとてもあったと思うんです。でもあれもなんというか、子どものちっちゃい時から音楽教育とかそういうのやってると、特に違和感がなくて、すごくいいものという感じでね、見ると思うんですけれども、その点教育者としてもね、どういうふうにお考えですか。

島田:教育者、すいません、もう、お恥ずかしいです(笑)。
先ほどもちょっとお話しましたけれども、やっぱり私はミュージカルは基本お芝居だってずっと信じてきました。ミュージカルは本当に上手くできてるなーって思うのは、そのお芝居の流れで、うれしい、例えば高揚した気持ち、うれしいーって気持ちが気がついたらフワーッと歌になってるとか。もうツライって思いがちょっとひとつのナンバーで繋がっていくとか。本当にそのお芝居と音楽、歌、ダンス、それがもう絶妙に自然に絡み合っているのが私はうまいなーって、いい作品だなあって。

鹿島:そうですね、ほんとによく出来たミュージカルってのはそういう風になってますね。

島田:そうですね、あのー、もう「何で急に歌い出すの?」とか思わせたらもう最後ですね、それはもうダメなミュージカルっていうことだと思うんですけど。
で、この『レ・ミゼラブル』はまた特殊で。本当に全編ミュージカルで、全編歌で、全編音楽が流れていて、全編歌でつづられるものなので、またそれをいかに演劇的に伝えていくかっていう。朗々と歌っているのばっかり見せられても困るじゃないですか。だから、いかに歌わなきゃいけないけども歌っちゃいけない、いかに言葉を本当にセリフで会話しているように伝えていくかっていうことを、すごく私はこの『レ・ミゼラブル』では学ばせてもらったんです。
でもそれはやっぱりミュージカル全般にきっと通じることかなと。本当に全てきちんとお芝居として、歌にしてもダンスにしても、しっかりちゃんと伝えられる、物語をいかに役者として伝えていけるかっていうことが、主題というか、永遠のテーマかなと。

鹿島:そうですね、芝居っていうのはね、確かにそう思いますね。構成とかそういうものもありますし。

人間の言葉はそもそも歌だった

鹿島:それからね、最も原点だと思うのは人間の言葉。
最初の言葉ってのは例えば感情が感極まって「あー」とか「うー」とかですね、それが人間の言葉の最初であって、それが「あ」「い」「う」っていうふうに音節化されて分節化されて、言葉になっていくんですね。

だから人間にとって感情を思わず声に出して、最初はそれは動物の叫びに近かったんでしょうね。それが徐々に別れて言葉になっていく。ということで、最初の叫びというものを多分そこのところにはある種の音階とかそういうのがあって、それがだんだん歌になる。だから歌っていうのは非常に古いんですよ。

島田:そうか!そうですね、そう考えたら!

鹿島:後に出たもんじゃない、一番最初に出たもんなんです。

島田:本当に!本当にそうですねえ、もう目からウロコです。

鹿島:例えば日本の五七五とか、そういうものも、もとは歌だったろうっていう説もあるんですね、ちゃんと歌がついてたって。

島田:なるほどねえ。

鹿島:これはギリシャ悲劇とかね、西洋のあれの中心になっていますけれども、もともともあれは原初的にはそのミュージカルみたいに音での表現が中心であろう。だから音、歌うっていうことはね、人間の感情の発露の究極の姿であってということで、そういう意味では、本当にうまいミュージカルだと感極まって歌うっていう感じですよね。

島田:そうですね。あの、よく「セリフは歌うように、歌は語るように」って言われるんです。

鹿島:なるほど。

島田:うん、それはすごく今おっしゃられたこととすごくつながってるなというのは思いました。

鹿島:だから私もね、色々このミュージカルで非常によく出来たものって、ほんと涙出てきたって事あります、歌聴いてるうちね。歌が人間の感情にいかに訴えるものであるかって言うんですね、そういうのはそのミュージカルの中に、うまく出来た良いミュージカルのスターが演じると、そういうふうになりますよね。これはだから、ほんとに良く出来てる、うん。

島田:そうですね。はあ、なんか一つ一つ、本当に勉強になりますね、先生。今、授業、個人授業を受けさせていただいて…。

鹿島:うん、だからそういう意味で、僕もこういう風に書いて細かなところが意外に分かっていると、これが理解にすごくいいんだろうなぁということで、色々な裏も取りながらやってるわけですね。

常に「ジュスト(公正)」であったユゴーとバルジャン

鹿島:例えばね、バリケードのシーン出てきますよね。
で、これちゃんと読むとユゴーってすごく立場、中立的なんですよ。意外なことに。バリケードを肯定しているのかと思うでしょ。バリケードのシーンが出てきて赤旗でヒロイックに死ぬっていうですね。
でもしっかり読んでいくと、ユゴーは必ずしもそれを肯定してはいないんですね。その点はね、この先生、もう非常によく書いていて、たぶんこの先生のあれは、ユゴーは「ユゴーさん、どちらの立場に立ちますか」っていうのを年中言われてたんだよ、だからそういうことに対してある種の政治家的に立場を中立的でどっちでも取れるっていうふうなことをやっていることもありますね。

でも、にもかかわらずユゴーで絶対的に変わらないものが一つあるんですね。それは何かというと、フランス語で言うと「ジュスト(juste)」ということで公正、つまり絶対的に悪いものを良いと言わない、良いものを悪いと言わない、絶対的に公正的な立場というものを取るというのがこれが最も人間として正しい立場で、それでその証拠にこのですね、一番最初に登場してくるですね、ミリエル神父。

島田:はい。

鹿島:この人カトリックの坊さんで、実は司教なんです。結構、偉いんですけど。でこれが出たからこれはキリスト教の話かなぁと思うとね全然そうではない。
ジャン・バルジャン、キリスト教の話だったら、ミリエル神父に感化受けたら、キリスト教徒にならなきゃならない。でも、全然キリスト教徒ならない。
最期も私(ジャン・バルジャン)はもうですね、司教なんか呼ばないでもあそこにいらっしゃるという形で、このもらった燭台をですね、こういう形で(図版を見せる)最後に死ぬわけで。
ユゴー自身もね、フランス人としては、非常にびっくりしたことに、洗礼を受けていない、自身も。もう最期に、この終油っていうカトリックのね、この死ぬ時のこれも受けてない。
だから本当の共和主義者、レピュブリカンなんですね。

島田:そうなんですよね。だから、ジャン・バルジャンにご自身の宗教観を投影させて。

鹿島:ジャン・バルジャン自身も正しい人なんですね。「ジュスト」。だから、ジャン・バルジャンが迷う場面っていっぱいありますよね。例えば、シャンマチューって人が現れて、自分が訴え出なきゃ、あいつが死刑になっちゃう、というようなときに、あえて自分は犠牲になって、もう1回、牢獄に入れられるようなことがあっても、「ジュスト」でなくてはいけない。
それから、マリウスを助けに行こう、愛するコゼットをとられちゃうかもしれない、にもかかわらず、マリウスを助けに行く、そういう、究極の場面がありますよね。

島田:あります。あります。

鹿島:そういう時に彼の価値観は「ジュスト」、公正ということなんですね。

この作品の蘇生力は「ジュスト」にある

鹿島:それがねあのユゴーっていう人が、今日でもね、もう最終的に、文学者としても、生き延びているっていうのは、その点にあるんだと思うんだよね。政治家としてもねえ。これはね重要なことだと思いますよ。これをね一旦踏み外しちゃって、悪いものは実はいいとか良いものを悪いとか言っちゃうともうそっちの方にとめどなく回転していっちゃうわけです。

島田:なんかその政治家としてどういう風にこう、完成していったかというのがここに書かれていて。すごくやっぱり、民衆、大衆が大事だということをもうものすごく、ばしっと、その選挙の時に言っているとかってそういう場面とかも出てきて。これが根底にあるんだと。

鹿島:この人の立場のすごく良いところは、いわゆる党派性と言われるものですね。一つの党派で固まっちゃうと、そちらが正しくても悪いと言わなきゃいけないとかね。その逆もあって、自分はそう思ったのが党派が言ってるからというしがらみ。それを断ち切るって言うのは基本的だけどね。

それで、ここで訴えていることはそれは社会全体でしなきゃ、社会的正義、社会的な公正というものをね。一つの功利主義とかそういうものじゃなくてやらなきゃいけない。だからね、これがね、まあずっと今まで生き延びてきた。

しかも人々にその時代に感動があった。こういうものってでその時代にすごく読まれて、感動を与えても時代が過ぎちゃうともうだーれも読まなくなってる作品ってあるんです。ほとんどはそれなんですね。「レ・ミゼラブル」は限りなく蘇ってくるでしょう。ミュージカルになったり。だからこの蘇る、蘇生力というものはどこにあるかというと僕の結論はこの先生と同じ「公正」「ジュスト」。その点だと思いますね。

島田:はあ。なんかすごい。なんかもう(拍手)。だからもう、普遍なんですね。普遍的なものなんですね。どっかに偏っているというかそういうことがなくて。

鹿島:人間の良心に鑑みて「公正」。正しいものっていうものしかないんだって言う。

島田:はあ。なんかすごく考えちゃう。すごく考えちゃう。そうですね。はい。

ユゴーは英語ができなかった? その理由は?

司会:ここから質疑応答に移りたいと思います。お二人に聞きたいことがある方はどうぞ!

質問者1:ユゴーは英語ができなかったっていうことが書いてあるんですが、ハムレットのフランス語訳って、ユゴー訳が定番になっているかと思います。実際ユゴーはどのくらい英語ができたんでしょうか?

鹿島:まずユゴーは英語あんまりできなかったことは絶対確かなんだよね。
本当の文学者って外国語が苦手なんですよ。
あんまり例外ないんですよ。外国もができる文学者ってのはあんまりいない。なぜかというと僕の説なんですけども、「言語頭脳定量説」っていう不思議な説を唱えているんですよ。

つまり、自分の母国語が頭の中に入りすぎると、語学を入れる場所が頭脳にないから、他の外国語を受け付けない。その反対に自分の母国語もあまり入ってない人は外国語をどんどん受け入れるんですね。
これ自分が、フランス語をやりながら、あまり外国語ができないから、悔し紛れにたてた説なんだけど。

島田:言語頭脳定量説!面白い!

鹿島:それでユゴーはですね、息子のシャルルっていう人はね英語できたんですね。であのほとんどシャルル・ユゴーが訳してて、それをユゴーが校正して、ユゴーという名前で出したんだと思いますけれども。

アングロサクソンに受け入れられた理由も「公正」か

質問者1:あと、ユゴーって、アングロサクソンに受け入れられている数少ないフランスの作家だと思うんですが、その理由をお伺いしたいです。

鹿島:ユゴーの小説はですね、これあのジャン・バルジャンの「レ・ミゼラブル」をね、世界同時発売、世界で最初。つまりこういうことをやったことはどこもないんですよ。だから英語版ね、他のバージョンも世界で一斉に発売されたんですね。

ユゴーはそれまでは国民的作家でですね、つまり国民的作家というのは、国内では、非常に尊敬されていて、みんな読んでるんだけど一旦外国に出ると誰もそんな人の名前を知らない。ユゴーは実はそういう作家だったんですね、これ書く前はね。

ところが「レ・ミゼラブル」を書いて世界同時発売したために、世界中の人がこれに深く感動した。なぜかっていろいろあるんだけども、さっき言ったこの公正さということがね、イギリス人、アングロサクソン的な考え方にかなり近いんじゃないかと思いますね。

アングロサクソン的公正さというものはね、我々から見ているとちょっと違うような気もすることがあるんだけど、例えば、ベースボールとか、アメリカのスポーツを見るとよくわかるわけですよ。つまりルールをきっちり定めて、そのうちで中でどんな荒っぽいことをやっても「公正」っていうジャッジがいて、それで決まるというね。そういうことがね、アングロサクソンの人たちはとても好きなんですね。

だからこれがカトリック側に立ってはいなくて、そこのところもちゃんと読んだんだんだね。プロテスタントの人が読んでも、これはカトリック的なことじゃないっていうことが、わかったんでしょうねえ。

それからあとついでに言っちゃいますと、ロシアがすごく受けたんですよ。それで、ドストエフスキーはこれにすごく感動して「罪と罰」とか「カラマーゾフの兄弟」とか大作を生み出していくわけですね。

もし島田さんがエポニーヌだったら?

質問者2:島田歌穂さんにお伺いしたいんですが、あのエポニーヌという役、すごくいい役、素晴らしい役で、それを素晴らしく演じられたと思うんですけれども、振り返って考えてみると、あの時代の成せる技なんでしょうが、彼女は身分が違うって意味で恋人と結ばれないし、彼本人は知らなかったにせよ、最後は自分が犠牲になって彼を助けるというようなことをやるんですよね。
今の時代から考えると、もうちょっと自由に振る舞ってというか何とかできなかったのかなということあるかなって、思うんですけど…、1,000回くらい演じられていて、そういったことって考えられたりしたんでしょうか?

島田:マリウスを振り向かせられたかもしれない(笑)。
でも、それはないもしれないですね。だって、ユゴーの原作を覆すことはできませんし「レ・ミゼラレブル」ですから。その悲しみがないと、エポニーヌが歌った「 On my own 」というソロの曲も成立しなくなってしまうので、そうですね、そこはなかったですね、絶対やっぱり、絶対叶わないものっていう。

鹿島:そう、それはね、これは叶わぬ恋ってことで、これはあのユゴーのもう一つの「ノートルダム・ド・パリ」のカジモドのですね、あの恋ですね。エスメラルダに対する報われない恋っていうのとほぼ同じ構造ですね。報われない恋っていうのはやはり美しいんですよ。

島田:ははは、そうですね、はい。ありがとうございます。

エポニーヌだけが観客とコンタクトを取れる

質問者3:今日貴重なお話ありがとうございました。島田さんにお伺いしたいんですが。先ほど、エポニーヌは「こんな状況だけど私は平気よ」って思ってるってお話がありましたけど、 「 On my own 」の最後の「でもひとりさ」という歌詞。どういうお気持ちで歌われてたのかな、というのが、すごい気になったんですけれども。

島田:面白いことをジョン(演出のジョン・ケアード)が言ったんですけど、エポニーヌだけ、時々、ちゃんとお客さんとコンタクトを取れるって。だからマリウスとやりとりしていて、適当にあしらわれて、ぱっと客席を見て「わかってないのね」て言う。多分「 On my own 」はその最たるものだと思うんですよね。だから「あの彼女の本当の心の底にある思いを吐露したところを、お客さんがちゃんと見れる」。すごくそういう面白いことを言ったんですね。

だから、ただ、その歌の中で、「ひとり でもふたりだわ」って、彼の、この見えない人に抱かれて、その彼への思いを素直に、素直に、初めて吐露している。その曲の中で、「本当に愛してるんだ彼のことを愛してるんだ、ああ私本当にこんなに彼のことを好きだ、だけど無理なんだ」と、いろんなことを確認していくんですね。でも、この曲の中の「幸せな世界に縁などなーい」って、それが現実。最後はわーっと吐き出して、「でも愛してる、愛してる、やっぱり愛してる、だけど一人だ」。それは受け入れてます。「私一人だわー」っては絶対に言わない、あー、もうこれ現実だよね、あー、もう受け入れる。そうだ、あれは受け入れてます。

でも、今はジョンの演出ではなくなって、演出的にも大分変わってるので、今はどういうディレクションになっているか、わかりません。もしかしたら、もっとわーっと言っているかもしれないですね。

私は自分の中で最後、受け入れるっていうそういう気持ちで歌ってました。

司会:さて、皆様いかがでしたでしょうか。すごくいろんな話が聞けましたね。
この話を聞いて、チケット入手困難ではありますがミュージカルを見に行くもよし、今回の課題本の『世紀の小説 レ・ミゼラブルの誕生』を読んでみるもよし、小説の『レ・ミゼラブル』を読んでみるもよし、鹿島さんの『レ・ミゼラブル百六景』を読んで見るのもよし。本当に色々な発見があった回だったと思います。

司会:ということで、「ALLREVIEWS友の会」プレゼンツ「月刊ALLREVIEWS友の会ノンフィクション部門第4回」は、時間となりました。
「月刊ALLREVIEWS」「ALLREVIEWS友の会」って何?という方は、こちらをご覧ください。この機会にぜひご入会いただければと思います。

※月刊ALL REVIEWS:フィクション部門は豊崎由美さん、ノンフィクション部門は鹿島茂さんをメインパーソナリティとした「ALL REVIEWS友の会」会員限定の書評番組。
「ALL REVIEWS 友の会」は、書評サイト「ALL REVIEWS」のファンクラブ組織です。

ノートルダム大聖堂火災に寄せて

鹿島:その前に…昨日(2019年4月15日−16日)、ノートル・ダム・ド・パリ、ノートルダム大聖堂がですね、悲惨な火災にあいまして、あれは私にとっては最大の悲痛なことでした。ずっとですね、フランスのYahooをずっと見ていて、映像が送られてくるたびに、ああ、ここまできちゃったら、ああ、という感じで見ていたんです。

けれども…私が想像してたよりも、少しその手前で火が止まったみたいなので、その点は良かったと思います。とにかくあれは人類にとって、本当に研究すればするほど、いかにすごい財産であったかということがわかるようなもので、ここで焼失してしまったというのは大変残念です。

実はあのノートルダム大聖堂は、大革命ですごく破損していたんですね。それをユゴーが酷いぞ酷いぞと、訴えるためにあの小説『ノートル・ダム・ド・パリ』を書いたんですね。そうしたら1845年ぐらいから大聖堂の修復をしようという動きが生まれまして、第二帝政期にそれが完成した、ということがあったんです。

今度焼けたのは、第二帝政期に修復したものが、尖塔とかそういうものが、焼けてしまったのですけれども、実は焼けたその、外側に見える部分でないところが、ほんとこれは中世の人間の叡智が集まったものです。

ユゴーが建築というものは、中世の人の叡智の結晶で、石の書物であると言いましたが、中世の人は全部叡智を建築に注ぎ込んで、今それは石の書物に変わっています。書物が消えるかもわからないという、今の時代に、こういう事件が起こったということです、とにかく僕がずっと昨日授業をしながらね、、朝7時半ぐらいに知って、授業を12時半からしていても気が気でなくて、授業して、すぐネットで見て、ああっていう感じですね。

島田:現実に起きていることとは、ちょっと思えなかったですね。
あれまた国家的に、修復して欲しいですね。

鹿島:全部、修復の技術はありますからね、できると思います。
というその点を最後にこの場を借りてお話しました。

空前絶後。フランスの歴史を読み通せる『フランス史』

司会:最後に告知などありましたらどうぞ。鹿島さん、最近の近刊で言うと…

鹿島:はい、近刊はですね、一つは小林一三の伝記です。これは中央公論社から出ています。

それからもう一つ、講談社の選書メチエというところから出ている、僕の翻訳です。『フランス史』そのままズバリ。

フランス史というのは、実は日本語で全部通して読める、一人の人が書いたものはなかったんですよ。僕はね、もう長い間そういう本が欲しいと思っていて、本当ならば自分で書いちゃえばいいんだけどさすがにそこまで図々しくないから…

『タブロー・ド・パリ』ってずっと前に僕が翻訳した本がありました。パリのこの時代、『レ・ミゼラブル』のちょうどその頃ですね。


1822年から23年頃のパリを石版画で描いた『タブロー・ド・パリ』という本があって、それの解説をしているのが、ギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニーさんという人でした。その人は大変な歴史家ですね。その時代の専門家で、その人が全部書いたのが『フランス史』です。

それはアメリカ人の学生のために書いたのですね。その人はカトリック学園の先生なんですけど、そこにみんなアメリカ人が留学してきて、誰もフランス史のことを知らないんです。だからそういうフランス史をしょうがないから自分で書こうということで、全部一人で書いた。これ600枚くらいのすごい本です。本当に読み通せるフランス史としてはこれは空前絶後だろうと思います。ちょうど現代のミッテラン政権までカバーしています。
ギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニーの『フランス史』選書メチエというところから出る本です。

祝!島田さんデビュー45周年

司会:島田さんは今年が…

島田:実は今年がデビュー45周年になりました。お前はいくつだと…(笑)
子役時代から、数えて45年になって…今年は秋にその45周年記念のコンサートを、今予定しています。それに向けて新しいアルバムも作っていく予定です。


司会:ALLREVIEWSでも、全力で告知させていただきます。

島田:ぜひよろしくお願いします。ありがとうございます。

司会:ということで、1時間半に渡ってお送りしてきました、この生放送はこれにて終わりとなります。どうもありがとうございました。

※このインタビューは、「月刊ALL REVIEWS」特別対談として 2019年4月17日に実施されたものです。当日の様子は、こちらの動画をご覧ください。

【関連リンク】

【文字起こし(ALL REVIEWS サポートスタッフ)】
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【この記事を編集したひと】保田 智子
出版業界の各レイヤーを放浪したのち、ここにたどり着きました。友の会SNS運営をお手伝いしています、覆面メンバーTです。
読んで価値ある本を人にオススメするのが、大好き。
仕事と子育てしつつ、読書時間とミュージカル鑑賞時間を捻出することばかり考えています。

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