第3章 ~文化と伝統~
ジャンボ〜!新井 伸です。
今回のアフリカ物語は..
ある村の慰霊祭に参加する新井 伸。今まで見たことない文化、そして伝統。なぜ新井 伸は村にいるの?色んな出逢いからまた、新たな価値観が生まれる。
そんな5日間を、このnoteに。
(まだ第2章を読んでない人は下の記事から!)
①モンバサまでの道のり
ケニアに着いて4日目、Morrisの家を出て首都のナイロビに向かった。自分で行く予定だったが、Morrisのお父さんがナイロビまで送ってくれた(朝4時出発、朝早くからありがとうdad)
待合場所に着くと、日本人が2人。そして1人の日本人が大きな車で迎えに来てくれた。今からこのメンバー+あるスラムに住む人で、ケニアの第二の首都、モンバサに向かう。
ケニアで日本語を使って会話をすることに気持ち良さを感じつつ、Morrisのお父さんとはお別れした。
モンバサに向けてLet's go!
車内でお互いの自己紹介!
1人目は坂田さん。
世界一周をしながらブログを書いて、今ではそれが本になって出版されている!
(https://www.amazon.co.jp/旅がなければ死んでいた-坂田ミギー/dp/4584139210/ref=nodl_これめちゃ面白かったまじでw)
2人目は常さん。
30代まで服のイラストレーターだったが、現在は映像のプロ!フリーランスで世界中を飛び回る、今回坂田さんと共同でケニアへお仕事で来られたそう。
3人目は早川千晶さん。
この方が今回のスタディツアーを主催してくれた、ケニア在住34年。キベラスラムでマゴソスクールを運営し、日本全国にアフリカの風を吹かせる、ケニア人と結婚しケニア人の子供を持つ、ケニアと言ったら千晶さんだ。
そしてそのマゴソスクールを運営するリリアン、教頭のオギラ先生、サラ先生とその家族達。
以上のハイスペックで経験豊富な3名と現地のスラムに住むケニア人、
そして19歳の若造が、一緒にモンバサに行くことになる。
自己紹介が終わり、
なぜケニアに来たのか、今ケニアはどんな状況なのか、オススメの観光スポットはどこかなど、色んな話をした。
最初の休憩エリアについた。
我慢していたものをしっかり出して、
みんながチャイを飲んでいたのでそこに向かった。(チャイは、紅茶とミルクティーの間みたいなやつ)
ここは常さんの奢りだと言うことでありがたく頂いて、千晶さんに話しかけられた。
「ほんでさ、あなたは私のこともマゴソのことも知ってこのツアーに来てるわけ?」
いや何も知らなかった。
千晶さんが何をケニアでやっていてマゴソはどんなことをやっているのか。そしてこのツアーはどう言ったものなのか。
「いやちょっと座ってちょうだい」
千晶さんが徐に僕へ言う。
あー終わった、これ怒られるやつだ。
10分後、、
しっかり怒られた。でも千晶さんは怒りながらも自分のことマゴソのことを僕に熱く語ってくれた。そしてもっと知って欲しい、勉強して欲しい。最後はその言葉で話が終わった。
「さあ、話も終わったし行きましょうか。」
しかしここでトラブル。
常さんが奢ってくれたチャイ、お釣りが明らかに少ない。お店の人は2000しかもらってないと言い張るが常さんは3000払った。激しい口論になってしまい、口論はスワヒリ語ペラペラで先程まで若造を叱りに叱った千晶さんの勝利だった。(千晶さん、凄すぎる。。)
そしてみんな車に向かった。
車に向かう途中、常さんに呼ばれた。
みんなが居るとこから少し離れた場所に移動した。
やばい、常さんにも俺怒られるのか??
そんな心配をしていた19歳の若造だったが、
「千晶さんあんなこと言っとったけど大丈夫だ、大丈夫👍」
常さんは僕を心配してくれていたのだ。短い時間で少ない言葉だったが、その時の僕にはとってもありがたい励ましの言葉だった。
そんなこんなで、モンバサに向かった。
(移動中はもちろんずっと千晶さんのnoteを読んでいた。だから今note良いなと思って書いてる、ありがとう千晶さん。)
②世界一危険な通学路を歩く子供達
10時間が経って、遂に到着。
車の中はもちろん、外に出るとめちゃ暑い💦(車の中はクーラーが付いていなかったが、それよりも外の方が暑い。。)
ナイロビは標高約1600mあって、比較的涼しいがモンバサは標高がほとんどなく、海が近くにあるのでものすごく暑い😵
しかし我々は到着したのはミリティーニ村という、海沿いから少し離れた小さな村だ。それでも暑い、暑すぎる。
現地に着くと、たくさんの子供たちが歓迎してくれた。
そこにはキベラスラムから特に家庭環境が厳しい子が学ぶことのできる環境があった。
子供達に連れられながら案内してもらった。男部屋と女部屋、先生の部屋、キッチン、そして遠くに見えたのが学校。そんな環境がミリティーニ村にはあった。
長旅であったので、村でご飯を頂いたあと、日本人はホテルへ向かった。
(ご飯めちゃ美味しかった!ウガリ、お肉、最高!!)
ここで4人目の日本人と合流。
名前はまさきさん、立教大学4回生でコカコーラ•Japanに就職が決定している同じ大学生の先輩だ。(いやコカコーラに就職とかえぐいてえ)
そんな最強4人と19歳の勉強不足叱られ男で
ホテルへ向かった。
2日目、坂田さんと常さんはモンバサのビーチに観光しに行くと言うことで一旦解散。僕とまさきさんと千晶さんは、また村へ向かった。
はいここでトラブル発生。
新井 伸、寝坊をかます。
はい終わった、起きたの集合時間だったし、昨日怒られたばっかだし、もう新井 伸のアフリカ物語終わりです、終わりでーす。
急いで千晶さんへ連絡、、
しようとしたら、既にドアの前に居た。
「すみません今起きました。ほんとごめんなさい!」細々とした声ではなく、結構ハキハキとした声で。
すると千晶さんが一言。
「よかった起きてくれて!まさきくんもさっき起きたばかりだから、早く朝ごはん食べてきな!」
え、めちゃ優しいやん。
てかまさきさんファインプレーすぎる。俺のために一緒に寝坊してくれたなんて。。
命を救われた新井 伸であった。
村到着!
今日は学校へ行く。
その予定を聞かされた僕たちは学校へ向かう。
いや、これ通学路??
まず学校まで遠いし、これって道なの?
衝撃を隠し切れない僕とまさきさん。
そんな僕たちを嘲笑うかのように、まるでスポーツカーのような速さで現地の子供達は駆け上がる。(絶句)
30分後、、
やっとの思いで着いた学校。
そこには何百人もの生徒と大きな学校があった。山の上にある学校はAPUだけじゃ無かったと、黄金卿はあったんだと、そんな気持ちで校舎に入った。
1時間子供達とお話ししてお散歩をした後、村に帰るよ〜と千晶さんから言われ、村へ向かう。
すると教頭のオギラ先生が違う道で帰ると言い出した。こっちの方がハードで面白いと言い出して、正気か?と思ったが、ハードモードで帰った。
20台以上のスーパーカー(子供達)に抜かされながらも、やっと村に辿り着いた。
みんなで美味しい冷えた水を飲んで、全回復した!
そんなこんなで疲れ果て、2日目が終わった。
③祭りに向けてみんなで準備!
3日目の朝。
目覚ましと共に目が覚めた。
ゆっくりと覚悟を決めて時計を見る🕰
6時。
良かった、最高の目覚めだ。
朝食のレストランで千晶さんと出会う。
「伸くん偉いじゃん、今日はしっかり起きたのね^_^」
「もちろん!」
また村へ向かった。
今日は慰霊祭に向けて準備をする。
ここで5人目の日本人が到着。
名前は翔さん。
京都大学 医学部に通う5回生。
今まで数多くの国々を旅して、ヒッチハイクが趣味。明らかに猛者。
アフリカに来る人は2パターン。
①今まで数多くの国を旅してきて、アフリカは来たことなかったから来ましたって言う猛者
②今まで数多くの経験をしてきて、アフリカに仕事があって来る猛者。
そして初海外がアフリカって言う
どのパターンにも当てはまらないやつもいるらしい。(新井)
翔さんは夕方到着だったので、準備は僕とまさきさんの2人で行った。
まずは水汲み。樽を放り投げて井戸にある水を汲み上げる、そしてタンクへ運ぶ。
ものすごく単純だが、めちゃきつい。
まず井戸から水を汲み上げる作業、まず間違いなく男子中学生以上の力は必要だ。
そして水をタンクへ運ぶ作業。
これは男子高校生でウエイトの時めちゃ姿勢良いやつじゃないときつい。
部活を引退した僕にとってはどちらもすごくきつい作業だった。。
(現地のケニア人は軽々、ものすごいスピードでやってました)
約1時間この作業やって、長老の家へ向かうことに。
明日の祭りの意味や意気込みを長老の口から語ってもらう。それを千晶さんに通訳しながら話は終わり、みんなの前で改めて自己紹介させてもらった。
その後はケニアで主食とされているウガリを一緒に作ったり(これがまたきつい、、) 約1kmは離れた場所から5kg, 10kgの水タンクを運んだり、みんなで歌の練習をしたりした。
身体はめちゃきつかったけど、みんなと話しながら作業するのはものすごく楽しかった。
そして翔さん、坂田さん、常さんと合流してみんなで夜ご飯を食べ、いよいよ慰霊祭が明日始まる。
④文化と伝統
4日目の朝。
楽勝に起きました。
誰一人寝坊することなく村へ向かう。
仕事の都合で来られなかった日本人が5人ほど合流して、約10人の日本人で慰霊祭を迎えた。
長老へご挨拶に行った後、ゲスト用の椅子が用意されていたので、そこに座り慰霊祭が始まるのを待つ。
爆音で鳴り響くアフリカの音、スピーカーが用意されていた。
どうやら、慰霊祭の前に選挙演説をする代わりに政治家さんが村に貸してくれたそうだ。
そんなこんなで慰霊祭が始まる、その前に。
飯!まず飯!
みんなで飯食ってから騒ごうぜ!
そんな感じで、もちろん手だけでみんなで飯を食らった。
美味しいピラフを食べた後、
いよいよ慰霊祭が始まった。
まずはマゴソスクールの演舞。
(noteでは動画が載っけれないのでもし見たい方は僕のインスタかツイッターから見てね!)
とても楽しそうで、最高の開幕だった。
次に、プロの音楽家が登場。
この村に伝わる伝統的な踊り方、肩だけ揺らして腰は揺らさない踊り。僕は2日でマスターしたので、よければ日本で披露しますよ。
素晴らしい演舞、途中トランス状態になってぶっ倒れる人もいたけど(いやマイケルジャクソンのライブ会場やん)
祭りは盛り上がりに盛り上がって、夕方に。1度夜ご飯休憩した後に、また踊る。
暇さえあれば踊る。
そこに会話はいらない。踊りと音で伝統を紡いできたのを僕は全身で実感した。
結局夜の0時まで踊り続けて、流石に遅いのでホテルに帰った。
翌朝。
村へ戻るとすでに踊っていた。
なんと夜通しずっと踊っていたそうだ!
(いやクラブやん、でも踊ってる人たち結構歳食ってるよみんな、体力えぐいって)
長老の断髪式が終わって、突然みんなで移動。僕もバスで移動した。
移動した先は、、
家もない、道もない、秘境のような場所だった。
そこには歴代の先祖様のお墓があった。
そして生贄のヤギがいた。
何かものを唱えて、みんなで墓の周りを踊りながら囲む。そしてある人は墓の上にいって遺体の上で踊る。
異文化を初めて実感した。
遺体の上で踊るって発想がない。しかもおふざけなんてあるもんか、真剣に涙ぐんでみんな踊る。僕は本物の生きる文化を肌で実感した。
そして慰霊祭は終わり、ヤギはあっさり屠殺。ヤギの神聖なる液体を墓にかけて村へ戻る。
文化とは、人間が自然と共に生きるために紡いできた知恵。
死者は大地となる。
お墓の上で踊るのは、大地となった御先祖様から声を聞くため。
それぞれの文化に意味はあって、
伝統として引き継がれている。
そんな世界がケニアにあった。
日本にもあるだろう、今もずっと。
文化や伝統の大切さを改めて知った。
そして気になった、僕の先祖は誰で、どこで生まれて何をしていた。そして僕はどうして生まれたのか。
日本では得られない気づきを学びを
僕はケニアで学びました🇰🇪
このような貴重な体験をさせて頂いた早川千晶さん、マゴソとジュンバ•ラ•ワトトのみんな、ミリティーニ村の方々。
本当にありがとうございました😊
そして大切な文化、伝統を
これからもお互い大切にしていきましょう。
次回 新井 伸のアフリカ物語
第4章 〜This is Africa〜
アフリカの全てを見た話
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